めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
不、無、非、未
打消しの接頭語には「不」「無」「非」「未」がある。それぞれ、少しずつ意味が違っており「不・・・~ではない」「無・・・~ない」「非・・・~普通とは違う、普通ではない」「未・・・~まだ~ない」と分けられる。日頃はあまり意識しなくても我々日本人はそれなりに上手に使い分けている。さて、今朝方に久しぶりに悪夢を見て飛び起きた。あまりにもリアルな夢で現実世界でもあり得なくはない場面だったので今でもよく覚えており、もしも同じシチュエーションになったら「自分軸」をしっかりと持って対応しなくては!と思っている。夢は無意識に日ごろ思っていたり感じていることが反映されるというが、まさにその通りで・・・。あることを日頃から気にはしていたのだが、まさかそこまで気にしているとは思っていなかった(「無」)。正直言って普通ではない状態(「非」)の出来事に対して日ごろから気にしており、それが夢となって出てきたという次第。とはいえ、現実においては幸いなことにまだ夢のような状況には陥っていない(「未」)。あくまでも夢の中での話で、現実ではない(「不」)!「心配事の9割は起らない」という、枡野俊明(禅僧)の言葉を信じて前向きに。
2016/09/20 14:14
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風邪
仕事上でお世話になっているMさんが、先日から風邪をひいてしまったとのこと・・・。早く元気になってくれることを祈るばかり。さて、「風邪」と書いてなぜ「かぜ」というのか?気になって調べてみた。代表的な説が二つあり、①風邪を引いたり体調を崩したりする外的な要因を、東洋医学では「邪(ジャ)」と呼ぶ。「風邪を引く」の「風邪」とは「カゼのジャ」、つまり「ふうじゃ(風邪)」であり、体調を悪くする環境や外的刺激の中でも特に自然界に吹く風が体に与える悪影響を指す言葉だった。②体表の熱を奪い皮膚や粘膜を乾燥させる「風」は自然現象であるが、かつては神が起こすと考えられていた。悪霊が起こす邪悪な「風」が「風邪(ふうじゃ)」なのだ。平安時代などは「体調を壊す=物の怪の仕業」と考えられていたので、風邪をひくという症状を何かに取り憑かれたと考えたのも無理もない。①②も成程と納得すると同時に、特に②に関しては「改源」という製薬会社の風邪薬のキャラクターが風神になってることにつながった。つまり風邪=風の神が起こす・・・ことから風神。とはいえ、改源キャラクターの風神は年がら年中風邪をひいていたが改源の薬を飲んで元気になり、皆の健康にするという使命に目覚めたというコンセプトだとか。「風邪」は最初は「ふうじゃ」と発音していたが、明治以降は「かぜ」と呼ぶようになったらしい。良くない風神、改源に登場する良い風神、どちらの世話にもならないよう体調管理をしっかりとしていきたいもの。
2016/09/19 02:36
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聞くは一時の恥、聞かぬは・・・
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺がある。【注釈知らないことを人に聞くのは、そのときは恥ずかしいと思っても、聞かなければ一生知らぬまま過ごすことになるので、そのほうが恥ずかしい。知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせずに、素直に聞いて学ぶべきだという教え。】むろん、いかなる場合においても「自分が知りたい」という理由で相手のプライバシーにかかわることをズケズケと聞く・・・というのは、よろしくない・・・というよりも論外!だが、勉強に於いては疑問点などがあれば「聞く」という姿勢が大切だと思う。先日、看護学校に通ってらっしゃる大人の方からの依頼で試験対策をさせていただいた。看護学校というと国語のイメージはなかったのだが、最近はかなり高度な国語の授業があるらしく、実際に教科書類を見て愕然とした。教科書そのものの内容も難解なのだが、それ以上に難解なのが配布されている資料・・・。さらには授業の様子などを伺ったところ、いわゆる「20年~30年前の大学の授業(要するに、あまり工夫されていない、教授の一方的な眠たい講義)」を彷彿させるものであった。その状態で自力で勉強を・・・とはまるで雲をつかむような状態。Yさんは「時間」「お金」が発生し、しかもご自分の立場というものを考慮すると「聞く」という行為に至るまでにはそれなりの覚悟が必要だったはずだが、それでも行動を起こされた。その姿勢は素晴らしく、見習おうと思った出来事。
2016/09/18 13:20
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孤軍奮闘
昨日、関東在住の友人から「縁も所縁もない北海道で塾を立ち上げ、ユニークな授業で生徒を楽しませているだけでなく、毎日、高度な内容のブログを休みなしで続けているのはすごいことでしょう?」と、通ってらっしゃる英会話の授業で周囲に紹介して下さったという嬉しいメールが。思わず嬉しいやら気恥ずかしいやら・・・、と同時にこんな素晴らしい紹介を聞くと「どんなすごい人が国語塾を主宰してるの?」「孤軍奮闘で頑張ってるんですね」と言われそうだが、正直言って思い起こされるであろうこれらの発想と現実はかなりかけ離れている。「孤軍奮闘(こぐんふんとう)」とは支援する者がない中、一人で懸命に戦うこと。また、一人で難事業に向かって鋭意努力すること。孤立した少数の軍勢が、敵と懸命に戦う意から。▽「孤軍」は味方から孤立した少人数の軍隊のこと。でも、現実はというと周囲の支援のおかげで気づいたら3年、10月から4年目を迎えるという次第。決して一人で戦ってきたわけではなく「国語塾を立ち上げよう」と決めたその瞬間から、縁もゆかりもないはずの土地なのだが、不思議と支援者が現われて今日に至る。むろんすべての個人事業主がこんな暢気なことを言っているわけではないことは百も承知だが、それでもなお敢えて言う。今までも、そして今後も応援してくださる方々のおかげで頑張れるということを。初心に返ってますます、ワクワクを目標に邁進。
2016/09/17 16:35
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最高に嬉しいコメントありがとうございます!実は、ヒデ@バドミントンさんのことを思い浮かべながらブログを書いていました!!!!本当に本当にヒデ@バドミントンさんをはじめとして、皆様には足を向けて眠ることが出来ません?!立ったまま寝ようかと真剣に考えてます(苦笑)
2016/9/18 13:23 返信
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仲秋の名月
昨日は「仲秋の名月」、これは「旧暦8月の月」を意味し十五夜の月(旧暦8月15日)に限定されなくなり、指す範囲が広くなる。つまり「十五夜のお月さま」という言葉から「9月15日の月」と連想されがちだが、実はその年によって日付けが変わりが、たまたま2016年はピッタリ9月15日が「仲秋の名月」という縁起のよい年回り。そんな素敵な日に、友人が「開塾3年目のお祝いのお花」+「美味しいお菓子(お団子の代わりに)」を持って来てくれた。お月見の由来には「最も美しく見える季節に月を鑑賞する」という意味あいの他にも「神様への豊作祈願や収穫の感謝を表す」という意味合いもあることから、「これからの更なる発展(豊作祈願)と3年間でお教室運営が軌道になったという(収穫の感謝?)」を意識したことは言うまでもない。むろんそれ以前に友人の心遣いには涙が出る程嬉しく、感謝しきれないぐらいである。ちなみに友人から頂いたお花のメインカラーは「黄色」、お月様も「黄色」!風水で黄色は、金運アップ、変革、変化、また、こうなりたいと思う自分になれるというような効果があるとか。こうなりたい自分、理想的な自分、国語力のアップした自分を想像して・・・また新たに出発!
2016/09/16 11:06
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本当に良いお友だちが、たくさんいらっしゃいますね。\(^o^)/そして、国語塾も3年経ちましたか。もっと長いお付き合いのような気もします。(^○^)私も先生の国語塾は、今後何十年と発展し続けると思います。\(^o^)/
2016/9/16 13:29 返信
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素敵なコメントありがとうございます!!!本当に素敵な方々に囲まれてあっという間の3年です。どの方々とも長いお付き合いのような気分で・・・・。ハイ!気分は永遠の28歳で、今後何十年も頑張ります!
2016/9/17 16:23 返信
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スポット@めむr国語専門塾 → ゆかぽんさんへの返信
有難うございます~~~!そうですよ~~!お互いに永遠の20代ですよ!!!お互いに周囲の、年齢に関する客観的なコメントはスルーしましょうね(笑)
2016/9/18 13:07 返信
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酔生夢死
人生を24時間で当てはめてみると中学生は朝の4時半ごろになる・・・という興味深い話を友人から聞いた。成程、午前0時に生まれたとし、人生84歳とすると42歳で正午で10代なんて言うとまだまだ夢の中。この話を聞いた時にふと「酔生夢死(すいせいむし)」という四字熟語が頭をよぎった。意味は「酒に酔った心地、又は夢みているような心地で生きそして死んでいくこと。何も為すことなく無自覚に一生を送ること」。午前4時半だとようやく空が白みかけるころ・・・健康的な時間に起きて日中活動するのが理想だが、下手すると起きてもパジャマのままでボーッ夢心地で夜を迎えて・・・と一生を終えることになりかねない。むろん本人や周りに迷惑をかけることなく一生夢見心地で過ごせるならばそれはそれでいいのだが、まずはそうはいかない。疲れたらお昼寝することもあるだろうが、取りあえずはきちんと起きて活動して・・・という一連が大切。まさに中学生は目覚めるべくして色々と迷ったり考えたりしている時期。そして自分はというとお昼寝から覚めかけたころ?!(あ、お昼寝よりも前の朝方の2度寝から覚めたころ?!)悔いなく生きて、お祝いの酒で心地よく酔って、最期は満足して夢見心地で死んでいけたら最高。
2016/09/15 13:36
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馬子にも衣装
「馬子にも衣装(まごにもいしょう)」という諺はよく「孫にも衣装」と間違えられる。本来の意味は、馬子にも衣装とは、どんな人間でも身なりを整えれば立派に見えることのたとえ。【注釈】「馬子」とは、駄馬に荷物や人を乗せて運ぶことを職業とした人で、馬子のような身分の低い人でも羽織袴を着れば、立派に見えることから。現代では「馬子」という職業が存在しないため、「孫」と勘違いし祖父母にとっては「孫に立派な衣装を買って着せてあげるとますます可愛く見える」といった風に勘違いされてしまいがち。本来の意味を知ったうえで失礼にならないように、基本的には自虐的に使うのはいいが人様に対しては使わないのが無難か。さて、昨日何気にユーチューブを開くと・・・37年間彼女なしの男性がテレビ局のスタッフたちの協力で思い切りイメチェンし、今までは女性に声をかけることが出来ないぐらいの引っ込み思案だったのが、自信を付けたおかげで積極的になったという番組が流れていた。正直言って身につける洋服によって見た目の印象が大きく変わるのはもちろんのこと、本人が洋服や髪形などの外見を変えることによって自信を付けることは素晴らしいことだと思う。よく「どうやったら自信が持てますか?」と聞かれるが、自信とは「つく」というよりも「つける」ものだと思う。それがたとえ「馬子に衣装」であっても自信をつけるきっかけになれば素敵だなあと思う今日この頃。
2016/09/14 13:16
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同病相憐れむ
「同病相憐れむ(どうびょうあいあわれむ)」という諺がある。意味は、同じ病気や悩みを持つ人は互いの気持ちが分かるから同情しあうこと。出典は中国後漢時代の史書『呉越春秋』「闔閭内伝」で、家族を殺された二人の人物が協力して復讐をとげるという逸話の中で用いられた例え。語源となった出典のエピソードそのものは感動的なのだが、現代使われている意味には自分としてはあまりピンとこない。というのが、同情しあう=傷をなめ合う⇒その後の成長は?!とツッコミを入れたくなることと、「同情」という言葉を聞くとなんとなく上から目線のように感じてしまうから※あくまでこれは個人的な感覚として。そんな矢先に「同情」と「共感」は違うと書かれている本を読んだ。「同情」とは相手に巻き込まれてしまい一緒になって堂々巡りをするのに対し「共感」は相手の感情に寄り添うのだとか。そして人間が成長するためには「共感」が必要なのだとか。ウーン、よく分かったような分からないような。つまり、史書の中に書かれていることは「共感」なのだが、それを日本語に訳す時には当時はピッタリの言葉がなく「同情しあう」となった?!と勝手に解釈している。正しく「同病相憐れむ」を実行し、互いに成長したいもの。
2016/09/13 22:24
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走馬燈のように
国語塾のブログをいくつか読んで頂くと分かるように、これを書いている本人は「個性的で時として辛辣な?ことを言う」タイプである。書いたものを読むだけならともかく、実際に面と向かって話すと相当怖いらしく…先日は友人に「この瞬間の叩きつけるような衝撃と底知れぬ笑い・・・私が死ぬる時に人生の走馬燈に必ず映るに違いないです。」とまで言わしめた(汗、汗)。一応、言い訳をしておくが「人格を否定するような」「相手を貶めるような」マイナスなことは基本的に発想として浮かばないし発言していないつもり。さて「走馬燈のように」という表現は、死ぬ間際に今までの人生の出来事が思い起こされるというような比喩として使われる。とはいえ、本当にそうなのかどうかを確かめようにも死んだ人に「死ぬ間際に走馬燈のように思い出が流れましたか?」と聞くわけにはいかないが。ただ、個人的には長年辛苦をなめ続け、それが報われるような出来事があった時に、今までの出来事が走馬燈のように頭を駆け巡るという経験は何度もあり「ああ、走馬燈のようだ・・・」と一人で感慨にふけっている。走馬燈とは影絵の回り灯篭のことでお盆の時期になるとよく見かけるもの、つまりあの世とこの世を結ぶ時期に使われる物なので「走馬燈のように」とは「死ぬ間際にうつる映像」と限定されるのだろうか?どなたか、その辺りのことを詳しい方、ぜひご教示願いたい。
2016/09/12 10:35
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去る者は日日に疎し
「去る者は日日に疎し(さるものはひびにうとし)」という言葉がある。【意味】死んだ者は日が経つにつれ世間から忘れられていき、親しかった者も遠ざかれば日に日に交情が薄れていくということ。(出典「文選」)。正直言って個人的にはこの言葉は好きで、どんどん実行しようと思っている。というのが、当然のことながら毎年、塾を卒業する生徒たちがいるわけであって、その後連絡があればあったでそれは嬉しいが基本的には音信不通大歓迎。音信不通=「おそらく元気にやってるだろう」「国語塾のことなんて忘れるぐらいに今を楽しんでほしいし、楽しんでいるだろう」と解釈しているから。以前に「高校生になっても場合によっては勉強を教えてもらっていいですか?もし困ったら連絡します」と言われたことがある。正直言ってこの場合は「連絡がない=自力で元気に頑張っている」証拠なので「ハイ、分かりました。でも極力連絡がないことを願います」と正直に申し上げた。結局勉強を一緒にすることはなく、別の機会に「本人が元気に頑張ってます」と伺うことが出来、嬉しかった。こういう考え方なので、自分自身はミクシィ(こう書くと年齢がバレる?)、ツイッター、フェイスブック、ラインは一切やらないのだが(世の中で最後のひとりになってもガラケーにすると豪語しているぐらい)、某生徒に「自分が卒業したら、もうここには来れないので先生ラインしましょう!ぜひスマホに替えて下さい」と言われた途端に心がグラリと動く・・・自分って「優柔不断で中学生には弱い」と改めて実感(苦笑)。
2016/09/11 15:15
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スポット@めむr国語専門塾 → Iさんへの返信
コメント有難うございます~!受けて下さってよかったです~~~。最後のオチは軽い気持ちで書いたのですが、かなり?!物議を醸しだしたので(苦笑)。いつも堅物で皆から怖がられている自分自身としては笑っていただけるのは最高の幸せです~~~!!!
2016/9/18 13:05 返信
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