めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
鬼
最近「鬼」づいている。10日ほど前に生徒から「鬼に金棒ですね!」と褒められ、先週から右目が結膜下出血でまるでバンパイヤ(吸血鬼)状態!友人には冗談で「若い子の生き血を吸ってこうなった・・・・」などと言っているが。生徒からはメガネ姿が超不評・・・そこで、ふざけて鬼の御面をかぶってみせると「先生、顔が優しくなった・・・」と言われる始末。さて、実は自分の中では「鬼」というものに対してのイメージは決して悪いわけではない。むろん節分に「鬼は外」と嫌われたり、昔話では「恐れられるもの」として書かれているが、「魂」という漢字は「云う(言う)」+「鬼」、つまり目には見えない人間の生命、本質を表す魂は「鬼が言う」という作りになっている。実は「鬼」は誰の心の中に存在するもので、ある意味「神」に近い?といった解釈をしている。むろん解釈は人それぞれだが、漢字を見てイメージを膨らませるのが好きで・・・先日、書道家に「鬼に金棒」を書いてほしいとリクエストしたところ、まさにピッタリの素晴らしい書体で表現して下さった。まるで心を見透かされたような気分で、嬉しいやらびっくりするやら。しかも、北海道在住ということを知って下さり登別温泉の「鬼」をイメージして下さるという茶目っ気さも。ただただ感謝である。
2016/11/29 02:16
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言わんとすること(ブログ紹介)
最近、まさに自分が言わんとしていることを書いて下さっているブログがあるので紹介する。「数学が出来る人とできない人」(真実・事実を言う塾講師のブログ)☜内容については直接検索して読んで頂きたい。タイトルを見てもらうと「数学」となっており、このブログは「国語塾」主催者が書いてるはずだけど?・・・と思うかもしれないが、結局勉強が苦手か得意かを分けるものは①「素直さ」②「問題用紙を効率よく使う」、この二点に尽きる。国語においても・接続語・段落分け・キーワード・キーセンテンス・問で何を聞かれているか・・・・あらゆる情報をチェック、( )で囲む、□で囲む、矢印を付ける、数学のように=を付けることを口酸っぱく言っている。が、長年の習慣とは恐ろしいもので、言っても言っても生徒たちは「あ、忘れてました・・・」となる。忘れるのは想定内なので毎回毎回言い続けると素直な生徒は「ハイ、分かりました!」とこちらの指示通りに記入、「あ、分かった!解けた」となる。が、厄介なのが「ハイハイ。キーワードでしょ。もう何回も聞きました。見たら分かります」と面倒くさがって何もチェックをしないタイプ。さらにはそういうタイプに限ってこちらがヒントとして記入したり、答えに×を入れることを嫌うため何も口出しや手出しをできなくなる(要するに見捨てざるを得ない)・・・。究極は答えを見て写して自分で○を入れる・・・・さすがにここまでのタイプは極少だが、国語でこの状態ならば他の科目もきっと悲惨だろうと想像がつく。なぜなら、すべての科目の基本は国語だから。つまり、何を問われているか?を理解出来ないことには問題に答えることは不可能。ちなみにン年前まではあらゆる科目を教えていたが、今は国語一本に絞っているのは「国語力がすべての科目の基本」という考えに基づいている。
2016/11/28 03:23
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雪辱を果たす
今日は天気予報通り、早朝は雪が降っていた十勝地方。北海道は「雪」のイメージがあるかもしれないが、実は「十勝晴れ」という言葉があるように、十勝地方の晴天は最高に美しく、空が澄み渡っており冬でもさほど降雪は多くなく晴れの日が多い。今日は雪が降ったが明日は晴れの予報。さて今日は「雪」に関する言葉を紹介する。「雪辱(せつじょく)を果たす」という慣用句がある。「雪」は「雪ぐ(すすぐ)」と読み、洗い流す、清めるという意味がある。つまり「辱め、恥」を洗い流す⇒前回負けた相手に勝ち、恥をすすぐことを言う。誤用としては「雪辱を晴らす」だが、「晴らす」だと「辱め、恥」を「なかったことにする」になってしまい逆の意味になる。が、残念なことに平成22年度「国語に関する世論調査」では「雪辱を果たす」と正しい使い方をする人が43.3パーセント、「雪辱を晴らす」と誤った使い方をする人が43.9パーセントで間違った使い方をする人の方が微妙に多い。確かに「雪」という字から「晴らす」とイメージしてしまうのは分かるが、「雪」=「空から降ってくる雪」という意味ではなく「雪ぐ(すすぐ)」と語源を考えると間違いが少なくなる。慣用句や言葉は正しく使いたいものであり、覚える時にきちんと語源を調べるなどして理解してから暗記することが大切だろう。
2016/11/27 17:53
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動詞+さる
数年前、知人が「母から荷物が送らさってきた」と言った時に「???荷物が送られてきたという受け身とは違うの?」となった。「送らさってきた」とは「意図せずに送られてきた」という意味で、「自発+受け身」だとか。実は「動詞+さる」は北海道弁で、①「○○できる」②「自然に、あるいは、意図せずにそうなる」③「受け身」という意味で使うとその時に初めて知った。①の「○○できる(可能)」は「このペン、インク出るかな?あ、書かさるわ!」つまり、書くことができるという使い方をするらしい。一般的な「れる、られる」は完全に「自発」「可能」「受け身」を分けて使われるが「動詞+さる」は①②③を厳密には分けず、混じったようなニュアンス。この表現には、対象物が悪いのであって自分は悪くないと責任回避する意味合いや、特定の誰かを責めることなく対象物がある状態になっていることを示す意味合いが含められており、使いやすい言葉となっているとのこと。そうすると、責任転嫁的な意味合いもあるのでは?といじわるな見方もしてしまう。例えば、誰かに自分の意思に反してエレベータのボタンが押されてしまった「押ささる」と使えば相手をダイレクトに責めない柔らかいニュアンスになるだろうが、自分の行動にについて使うときは「自発的に、やってしまったことで自分の意思ではない」となる?それとも自分の行動には使わない?!とか考えてしまうが、地元の人に聞いても良く分からない。なぜなら、方言のニュアンスというものは使っているうちに身につくものでうまく言葉では説明できないものだから。方言ってホントに奥が深いなあと改めて実感する。
2016/11/26 16:18
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れる、られる
今月は小中学生ともに「敬語」について学習したのだが、正直言って敬語は難しく、正しく身につけるためには間違っていいので日常的に使うか折りに触れて反復することが大切。さて、手っ取り早いけれど誤解を招く尊敬の表現が「れる、られる」。「れる、られる」には「尊敬 自発 可能 受け身」の四つの意味があるので、むやみに使うと誤解を招く。実際の場面であれば、その場の雰囲気からなんとなく理解できるが紙面上では注意が必要。逆に言うと、紙面上に書かれている「れる、られる」はあまり意識しなくても見分けやすい。なぜならば、絶対に誤解を招かないような文になっているから。さて、「社長、この書類を見られましたか?」という表現に対して①「社長、この書類をご覧になりましたか?」という尊敬の意味②「社長、この書類を(誰かに)見られましたか?」という受け身の意味③「社長、(雑に書いてある)この書類を見ることが出来ましたか?」という可能の意味、以上3点の解釈が出来てしまう。まさか~?こんなに裏読みする?どう考えても相手は社長だから「尊敬」でしょうと思うかもしれないが、人間は思い込みが激しいため自分が感じたニュアンスで話が進んでしまい、ゆくゆくは誤解を招くという事態に。あらぬ誤解を招かないためにも1つずつ正しい敬語を覚える、迷ったら尊敬は「お(ご)~なる」謙譲は「お(ご)~する」と使うのが無難。
2016/11/25 13:07
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勤労感謝の日
昨日11月23日は「勤労感謝の日」で祝日。戦前は「新嘗祭」〔にいなめさい/しんじょうさい〕で農作物の恵みを感謝する日だったが、戦後(1948年)「勤労感謝の日」に定められた。「労働」とは本来「農業に従事して生産を行うもの」だけを言うのではなく、今日のサービス産業なども含めた幅広い意味を持つことから「新嘗祭の日」という考えは却下され現在の「勤労感謝の日」が制定された。とはいえ、新嘗祭の名残からか農業王国の十勝ではあちこちで「収穫祭」(野菜直売所などでイベント)が行われ盛況だったようだ。さて、月に一度のレギュラー出演させていただいているラジオ番組、担当者のM様は収穫祭の取材で不在とのことで昨日はI様が担当して下さった。番組が始まる前は少々ドキドキだったが、笑顔が素敵で穏やかな語り口のI様!M様からきちんと番組内容を引き継いで下さっていたようで、本当に本当に楽しく「冬の諺、慣用句」についてのトーク。素晴らしい「場」「チャンス」を提供して下さった方々へはただただ感謝である。日頃は「勤労」に対する感謝を忘れがちだが、「勤労感謝の日」があると改めて「勤労」について考え、感じ、自然に有難い気持ちが湧いてくる。戦後はGHQの方針に基づき「勤労感謝の日」と改められ、元々の「収穫に対しての感謝」ではなく「勤労に対する感謝」に意味が変わってしまった・・・と残念がる人もいるだろうが、自分自身としては 素晴らしいネーミングの祝日だと思う。と同時に今月はお目にかかれなかったが、来月には担当者のM様にお会いするのが今から楽しみである。
2016/11/24 11:17
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「幸」「辛」
先週金曜日にお預かりした、中学3年生の読書感想文の審査を終えてホッとしている。他の審査員の方々との最終審査は来月だが、まずはトップバッターで預かり選考を行った。皆が一生懸命に書いた作品の数々、一点一点大切に読ませてもらうのだが残念なことは誤字脱字が多いこと。もったいないなあと思いつつ、今年は興味深い誤字を発見。ある作品中に「幸せ」をことごとく「辛せ」と書いていた。本人は「幸せ(しあわせ)」と「辛さ(つらさ)」を対比したかったようだが「しあわせ」と「つらさ」が同じ漢字になっており、思わず苦笑い。確かに「幸せ」と「辛さ」は見た目が似た漢字で、実生活においても「幸せ」と「辛さ」は紙一重。でも何年か前に書いたと思うが語源は全く違い、この二つの漢字には関連性はない。語源は違うが、偶然にも似た形の漢字になってるという点が興味深い。感想文の審査を終えてホッとしつつ、思わず「幸」と「辛」について様々なことを考えてみた。人間の幸不幸はまるでオセロの駒のようで、あることをきっかけに突然「幸」が「辛」に一気に変わってしまったり、逆に「辛」が「幸」になったり。そこには先を読む力、先見の目や手段が必要になるのかなあ~?いやいや、人間の幸不幸には人知を超えた力や流れというものが存在するので、オセロというよりも麻雀的?と言った具合に。たった一つの誤字からどんどんイマジネーションを働かせて楽しめる自分っておめでたい、幸せな人間だと言えるだろう?!
2016/11/23 02:51
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古文は外国語
「古文は外国語だと認識してね」と口酸っぱくなるぐらいに生徒に言っている。日本語表記だからと言って侮るととんでもないことに。なぜならば①現代語と意味が違う単語が数多く存在する(例えば「ありがたし」は現代語では「ありがたい、嬉しい」だが古語では「めったにない」となる)②文法や決まり事をある程度覚えなくては太刀打ちできない、この2点から外国語のようにとらえて、最低限のことを覚えるようにと生徒に伝えている。とはいえ、最低限のことを覚えたからと言って古文を全文解読できるかというとむろんそうは問屋が卸さない。では、どうするか?例えば問いに「①を意味を考えて書きなさい」とあった場合に傍線①だけをジーッと眺めるのではなく、前後を眺めて意味を予測することが大切。☜これも外国語の長文を読むときと同様!本居宣長(江戸時代の国学者)の「玉勝間」の文中に次のような表現がある。「桜の花ざかりに、歌よむ友達、これかれかいつらねて、そこかしこと、見ありきける、」。問「見ありきける」を現代語訳せよ、とあるのだが大半の生徒は「見ありきける」だけを見て「見飽きた」と答えてしまった。だが、直前に「そこかしこと」とあるので答えは「見歩く、見て歩いた」となる。某生徒に「昔の人は花(桜)を見て歌を作るのが風流であり、ある意味仕事だったので『もう面白くない、飽きた~』とはならないよ」と言うと・・・、「桜を見て飽きる人なんていませんよね!誰が見ても美しいし!!!」と満面に笑みをたたえて答えてくれた。「あれ?宿題で課題をこなした際に『見飽きた』と書いたのは・・・まぎれもなく君だよね」と言いたくなったがさすがにグッと言葉を飲み込んだ(苦笑)。
2016/11/22 14:26
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敬語と敬意
十勝地方の中学校では、中学2年生は「敬語」「古文(敦盛の最期など)」をこの時期に学習する。そのためか、混乱を生じてしまった某生徒。そもそも「敬語」は相手を高めるための表現で、目上の人などに使うと習うが・・・、注意しなくてはならないのは「敬語」と「敬意」は別物だということ。極端な話、相手のことを尊敬していなくても立場上「敬語」は使わなくてはならない。逆に相手に敬意を払っていても立場上「敬語」を使わない(使えない)場合もしばしば。さて、話を戻すが古文「敦盛の最期」において「なぜ直実は敦盛の首を取りたくなかったか?」という問に対しての答えは①自分の息子と同じぐらいの年齢なので、かわいそうになったから②敵一人の首で戦の勝敗が変わるわけではないと思ったから、という二点が答えになるのだが(本文にも書いてある)・・・。某生徒は①と、ひっかけの答えの「目の前の少年がひ弱に思えたから」を選択。本文には「あっぱれ大将軍!・・・」とあり、ひ弱どころか「なんと立派な大将軍だ」と年下(おそらく体格も自分よりも小さい)相手(敦盛)の堂々たる態度に対して敬意を払っているのだ。中学2年生にとって年下に敬意を払うとはピンと来ないかもしれず、ましてや年上や目上の人には「敬語」を使うと習ったばかりなので、どうしても敦盛と直実の立場というものが腑に落ちないようだ。あらゆる面から「敦盛の最期」は中学生にとって難しい内容だと思うし、自分自身も昔は「平家物語=難しい⇒嫌い」だったが、年齢を重ねると理解できる部分が多く、今は嫌いどころかむしろ大好きで読むたびに涙している。敬語や平家物語は中学生にとっては鬼門だが、何年か先には腑に落ちる日が来ると信じて今は「忍」か。
2016/11/21 13:53
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ひっかけの選択肢
現代文において、本文の内容に合ってるかどうかの問では大抵が四択になっており、四つのうち二つまでは比較的簡単に省くことが出来る。が、最後二つで迷う場合が多い。当然、迷うように作ってあるわけだが・・・。残った二つを比べてみると共に本文中の言葉が使われており、主語と述語の関係も本文と合っている場合が多いのだが、ではどうやって見分けるか?結論を言うと、選択肢内容の前半と後半の因果関係をきちんと把握すること。つまり、本文では「AだからB」と書いてあるのに対して間違った選択肢は「BだからA」となっていることが多く、そこに気付くことが大切。具体的に言うと「健康維持には運動が大切。だから、少しでも市民が運動に興味を持てるようにと市民講座が複数開設された」と本文にあったとする。間違ったひっかけの選択肢としては「市民が運動に興味を持てるようにと、複数のスポーツ市民講座が開設された。だから、市民たちにとって運動は大切なものになった」と言った具合。本文では「運動が大切⇒市民講座開設」だが、間違った選択肢では「市民講座開設⇒運動が大切になった」と因果関係が逆なのである。国語の解き方のコツをつかんでくると「極論は答えになりにくい」といったルールは皆身につけているが、因果関係に関しては相当、意識しないとだまされやすいので注意。
2016/11/20 10:04
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