めむろ国語専門塾
- ブログ
小さな国語塾のつぶやき
無病息災
昨日、1月7日に七草がゆを食べることによって一年間の無病息災を願うという風習が日本にはある。一応、自分も縁起を担ぎ七草がゆを食べた(今年は手抜きをしてドライの七草を使ったが)。さて、改めて「無病息災」という四字熟語をジーッと眺めてみたところ・・・「無病」は健康でいられるようにという意味だとすぐに分かったのだが、「息災」が「???」。早速調べてみたところ次のように辞典に記載されていた。【無病息災】の意味・・・病気せず、健康であること。元気なこと。▽「無病」は病気にかかっていないこと。「息」はやめる、防ぐ意。「息災」はもとは仏の力によって災害・病気など災いを除く意。転じて、健康で元気なさまをいう(新明解四字熟語辞典)。成程、「息」には「防ぐ」「やめる」という意味があると知りようやく「無病息災」について納得。さらに発展して・・・・。よく「ため息をつくと幸運が逃げる」と言われるし、実際に自分自身の周囲の人間がため息ばかりついていたとすると、あまりいい気分はしない。が、が、が、「ため息」そのものは「ためることをやめる」という意味になり「お腹の中にストレスや嫌な気分をためることをやめる」と解釈すれば実は健康によく、幸運が逃げるどころかむしろ幸運を招く?と解釈。周囲に不快な気分を与えないように配慮(つまり、時と場合を選べば)「ため息」は実はいいこと!と自分に都合よく解釈し、今までもこれからも堂々と「ため息」をついて新しい空気を呼び込もうと思う。
2017/01/08 08:54
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
古語の意味
古文で「ののしる」の基本的な意味は「大声で騒ぐ」となる。この単語は意外とテストで狙われやすく、さすがに「訳せ」とまでは出ないが、意味を4択で選ばせるというパターンが多い。各生徒に渡しているテキストにはもちろんのこと、別のテキストにも同じ設問があるため生徒には「ほらね!よく出るからしっかり覚えてね」と口酸っぱく言っている。とはいえ「ののしる」=「大声で騒ぐ」を知らなくても文脈から読み取れればいいわけだが・・・。さて、ひっかけの選択肢で必ず入っているのが「互いに責め合う」。どういうわけか?必ず何人かがこれを選んでしまう(要するに素直なタイプなのか)。声を大にして言いたい!「現代語と古語が同じ意味ならば、わざわざ問として出さない!こんな親切な?答えは絶対にありえない、一番選んではいけない答えだ!」と。例えば現代文中で「『ののしる』とはどういった意味で使われていますか?」ならば話は別だが、わざわざ古語において現代語と同じ意味を答えさせるわけがない!確かに古語で「あやし」には「変だ、おかしい」という意味もあり現代語と意味が被るが、大抵は「不思議だ」という意味で出題される(少なくとも中学生レベルでは)。文脈から読み取れればいいが、細かい文法を学んでいない中学生にとっては、それは酷というもの。ではどうすればいいか?①わざわざ古語の意味を問われるということは「素直に現代語と同じ意味を選んではいけない」と肝に銘じる②重要古語は最低限覚える、この二点に尽きるだろう。
2017/01/07 01:25
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
運も実力のうち
先日、生徒から「先生に年賀状出したのに先生から来てない!ひど~~~い」と言われ、びっくり!去年のうちに生徒全員に書き、他の生徒には届いてるらしいのに・・・と思いつつ2枚目を準備し「年賀状第二弾!お年玉くじ当たるといいね」と言うコメントも入れ、昨日彼に渡した。実は「来てな~い」と言った次の日に無事に1枚目が届いたらしく・・・2枚目も「あれ?コメントが増えてる!年賀状クジ当たるかなあ?」と喜んでくれた。が、が、が、次に「先生自体は運がいいけれど、先生からもらったクジってどうなの???」とブツブツとつぶやいていた(苦笑)。さて「運も実力のうち」という言葉があり、ほとんど慣用句になっている。おかげさまで自分自身は自他ともに認めるぐらいに「運がいい」タイプ・・・で、「運も実力のうち」という表現は半分(いや、半分以上?)は理に適っていると思う。「運」には大きく分けて二種類あり、自分では次のように定義している①素晴らしい家柄に生まれた、生まれつき容姿が整っていた、才能に恵まれていたなどの天性の運。②努力することによって援軍に恵まれる、チャンスをつかむといった自分でつかむ運。正直言って自分は①に関してはいわゆる普通レベル、どちらかと言うと②に関しては恵まれている。①に恵まれている人は、それを「強み」「実力」としてどんどん生かせばよく、①に恵まれていなくても②は自分でつかむことが出来る。努力は当たり前、その後は運の勝負!運の勝負を左右するのは自分自身だとつくづく感じる。さすがに年賀状のクジの当たりはずれは・・・・神のみぞ知る。
2017/01/06 02:11
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
文章上達法
先月から今月にかけて、生徒に文章の要約課題を出したり、推薦入試対策として自主的に作文を書いて提出する生徒もいる。彼らにとって要約や作文はかなりハードルが高い。なぜなら単に書けばいいわけではなく、採点の対象となるから。こちらとしても単なる日記を読ませてもらう・・・とはわけが違うので細かいところまでチェックをし、返却するので回答はコメントだらけに。ではどうすれば上手な(正しい?)文章を書けるようになるか?「とにかく書く、書いたものを大人(出来るならばコメントをもらえるような指導者)に見せて、推敲する。そしてそれを何度も何度も繰り返す事」が一番の近道。え?どこが近道?と言われそうだが・・・、ここで一番大切なのは「大人(指導者)に見てもらう事」!どうしても人間は「癖」があり、それが良い癖ならばいいのだが明らかに減点対象となるような癖は人から指摘してもらい何度も練習して矯正する必要がある。よくあるパターンとしては・文末がすべて「~と思います」で終わる・主語や目的語がことごとく抜ける、下手すると途中で主語が勝手に変わっている・句読点が多すぎる、逆に何百字も句読点なしで書いてしまう・・・など。何事もそうだが、独りよがりは命取りと肝に銘じて学校や塾の先生をどんどん利用した方がよい、また文章を見てもらえるような機会に恵まれるのは学生時代!と声を大にして言いたい。
2017/01/05 12:39
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
用言の活用
用言(動詞、形容詞、形容動詞)の活用は教える側、教わる側共に「鬼門」となりうる単元。一言で言うと覚えるべきことが多いため。動詞は五段活用、上一段活用、下一段活用、さ行変格活用、か行変格活用という5種類を覚え、活用形は未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形と6種類暗記。形容詞や形容動詞は活用に関しては1種類で比較的楽だが、大抵どの学校でもまず動詞を学習し、その後に形容詞や形容動詞を学ぶことになっており、形容詞や形容動詞を学ぶ頃にはすでに生徒の頭はフリーズ。さらに悪いことに・・・「活用は?」「活用形は?」と聞かれるとそれぞれ「五段活用、下一段活用・・・・」「未然形、連用形、終止形・・・」と答える必要がある、つまり問いが似ているが答え方に注意が必要なのだ。ン十年も前の指導者はひたすら活用表を書かせるというパターンが多かったが、正直言って表を沢山書いたからと言って問題を解けるかと言われると「否」と言いたくなる。表を覚えたところで、未然形と連用形が同じという場合が多く正答率が50パーセントになってしまうから。それよりもまずは動詞の下にどんな言葉が続いているかに着目した方が得策(これについては以前にブログで紹介した)。複雑な個所だからこそ指導者はポイントをしっかりと押さえ、学ぶ側もまずは「何を聞かれているか?」「何を答えなくてはならないか?」を把握し「活用の場合は『ない』をつけ、『ない』の上の母音を確認する」「活用形の場合は下にどんな言葉が来ているか?」という2点をきちんと頭の中で整理する必要がある。活用形を答える場合、動詞の下の言葉に着目し、それでは判断できない時は活用表を頭にイメージすると確実に解けるようになる。複雑な単元だからこそ細分化して一つ一つきちんと整理整頓して教える、教わり学ぶ姿勢が大切。
2017/01/04 00:09
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
曖昧さ
お正月休みを利用して古典「雨月物語」を読み返してみた。「雨月物語」とは江戸時代、上田秋成によって書かれた怪異小説集の読み本。その書名の由来は、序文にもある「雨霽月朦朧之夜」で九篇の小説から成る短編集。怪奇物ととはいえ単に「怖い」「おどろおどろしい」わけではなく、人情あふれ、時には涙する(「菊花の契り」を読むたびに泣いてしまう)ような優れた作品ばかり。原文や、現代語でも文字だけのは苦手という場合は学習漫画(くもん出版、中公文庫がお勧め)をぜひ読んでみることをお勧めする。さて、この作品の優れている点は中身の作品のみならず、題名もだ!と勝手に思っている。もしも「怪奇小説」「怪談」という題名にするとそれだけで拒否反応を示し、折角の名作を読むチャンスを奪われるという人が続出するだろう。むろん「雨月物語?何かロマンチックな話?」と手に取ってがっくり・・・と途中でバタンと言う人もいるかもしれないが、それはそれでOKだろう。何が言いたいか?日本人は今も昔も「曖昧さ」を重んじる文化があり、それを批判する専門家が多く存在するが、少なくとも本の題名においては「曖昧さ」は必要だと感じる事。曖昧な題名によってさまざまなイメージが膨らみ、小説を読み終えた時に、成程・・・と余韻に浸ることも出来るから。どんな場合でも曖昧がいいかというとそうではなく、人と人との対話、特にビジネスにおける対話では「曖昧さ」は絶対避けるべきだと思っている。その辺りの区別をしっかりとしたうえで、日本人独特の「曖昧さ」を引き継いでいきたいと思う今日この頃。ちなみに、自身の教室は明確に「国語専門塾」と名付けているにもかかわらず「数学は教えないんですか?」と何軒か問い合わせをいただく(苦笑)。これに関しては如何ともしがたい・・・。
2017/01/03 00:11
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
とり
今年は「酉(とり)」年だが、「鶏」「鳥」とは書かず「酉」という漢字を使う。実は「酉」の元々の意味は、口の細い酒つぼであり、お酒は熟した果物から作られることから「実る」という意味もあるそうだ。どうしてこれを「とり」と読むようになったか諸説があるものの、どうやら単なる当て字らしい。さて、当て字と言えば「主任」と書いて「トリ」と読ませる言葉もある。寄席で最後に出演する人を言う寄席用語で、語源は「取り」で、最後の演者がギャラをまとめて受け取り出演する芸人達に分配することから生まれた言葉である。現在ではギャラの受け取りに関係なく言い寄席以外でも用いられている。日本語の漢字や熟語に当て字がしばしば用いられるため難しいと言えば難しいが、言葉の響きから様々な想像が出来るのが興味深い。一言で「とり」と言っても空を飛ぶ鳥、取り、トリ(最後のまとめ役)などなどいろいろな意味を連想でき、どの言葉からも前向きなイメージが膨らむ。良いこと、素晴らしいことを貪欲に自分に取り込んで成長し、実りのある年にしたいもの。むろん不要、不快なものは取り除くことを忘れずに。何か新しいものを取り込むためには古くて不必要なものを取り除いてスペースを作る必要があるから。
2017/01/02 00:45
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
雉も鳴かずば撃たれまい
明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願い致します。今年の干支は「酉」!というわけで今日は酉に関する慣用句を紹介しよう。「雉も鳴かずば撃たれまい(きじもなかずばうたれまい)」という有名な慣用句がある。雉は鳴かなければ猟師に気づかれて撃たれることもないだろうに、という意味の表現。そこから、無用なことを言わなければよいのに、無用なことを言ったばかりに災難を被っているという意味で用いられる。これは簡単そうで難しいテーマである。鳴かなければいいのか・・・と必要なことも言わないのは良くない、かといって出しゃばり余計なことを言いすぎては自分で自分の首を絞めることになるわけで、このバランスが難しい。さて、有難いことに自分には「鳴き方」の師匠が4人いる。偶然にも全員S君。小学6年生のS君、中1のS君、中2のS君、中3のS君。各自個性は様々だが、6年生のS君は相手を傷つけたり怒らせたりする一歩手前になるように言葉を選んで発言する。この発言バランスが絶妙で、適度にブラックユーモアを混ぜつつの発言のため一瞬にして場が和む。中1、2のSは一言で言うと場の空気を読むのが抜群にうまい!散々悪態をつきながらも言ってはいけない内容や場面をきちんと押さえている。特に中2のSは敬語をきちんと使える!中3のSは「人のいいところ探し」が上手!また、決してネガティブな言葉を使わない。例えば「○○が嫌(△△と比べると)」と言うのではなく「△△の方がいい(○○と比べると)」と言った具合に視点を変換させてプラスの言葉を使うのだ。ウーン、年齢に関係なく名人とは存在するもの。今年も生徒から学ばせてもらうことが多くなりそうな予感!負けずに自分も良い指導が出来る様、日々精進。
2017/01/01 00:09
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
出過ぎた杭は打たれない
今日は今年最後の日・・・必然的にこの一年間を振り返ってしまうわけだが、有難いことに「楽しい、素晴らしい一年」であった。ひとえに素敵なご縁、周囲の皆様に助けていただいたおかげだと感謝している。ではなぜ、素敵なご縁や援軍に恵まれたかを分析してみると「出る杭は打たれるが出過ぎた杭は打たれない」を心掛けたことが一因か。この言葉は「経営の神様」こと松下幸之助(松下電器、現パナソニックの創業者)の格言。中途半端に目立ったり人と違うことをすると足を引っ張られるが、出過ぎる(言い換えると超越する?)と周囲は呆れて何も言わなくなるもの。中途半端に遠慮したりせず、自分の本心に従いやりたいことをやっていると楽しく、意外とどこからともなく援軍が現われるなあと実感している。というわけで来年もどんどん、いい意味での(人を傷つけない、人の道から外れないという常識は守ったうえで)「出過ぎた杭」「ゴーイングマイウェイ」を貫く予定!「え?これ以上?怖すぎる」という周囲の声が聞こえてきそうだが気にしない気にしない。平安時代の女流作家、紫式部の「紫式部日記」によると、彼女は「何もしらないバカのフリ」をして余計な敵を作らないという処世術で本当の自分を隠して宮仕えライフを波風たてぬように送っていることが伺える。それはそれで素晴らしいと思うが今のご時世、特に塾の講師となると他の講師や塾といかに差別化して目立つ(出過ぎる)かが大事。と言うわけで来年からもブイブイ飛ばす予定、宜しくお願い致します。
2016/12/31 00:28
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「納」
昨日は仕事納めであった。とはいえ、仕事始めの4日まではひたすら内職が続くわけだが…取りあえず本年の授業を無事に終えてホッとしている。さて、「おさめる」という字は「納める」「収める」「修める」「治める」と複数あり受験生泣かせ。正しい漢字を書くためには①熟語をを基に考える②本来の意味を調べて覚える、この2点に尽きる。さて「納める」には次のような意味がある。・金品を受け取り手に渡す⇒「納税」「納品」・物事を終わりにする⇒「納会」「仕事納め」・中に入れる⇒「納棺」「納屋」など。一年間をふり返ってみると様々な思い出が頭をよぎると同時に、「果たして自分は納得(得心して自分の中に入れる?!)する仕事をしてきたか?」と自問自答してみる。正直に言って「納得するような仕事をしたい、しよう」と常に思いつつも、心底納得した授業を出来た日というのは…ほとんどない。点数化されているものならば最高点は100点、最低点は0点と分かりやすいが仕事となるとそうではないことが多く、常に立ち止まることなく日々あらゆることを研究することになる。それがある意味、自分のやっている仕事の醍醐味とも言える。仮に生徒たちは納得してくれるような授業が出来たとしても、自分はそれで満足することなく、さらにもっとどんな工夫をすればいいか?と歩み続けていこうと新たに決意をしながら納得いくまできれいにお教室を掃除した次第。
2016/12/30 00:26
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です