めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
焦らない。でも、あきらめない。
斎藤 茂太氏をご存知だろうか。父は精神科医で歌人の斎藤茂吉氏で、弟は作家の北杜夫氏と言えばピンと来る人も多いかもしれない。斎藤茂太(さいとう しげた、1916~2006)氏は精神科医でもあり、随筆家である。愛称は「モタさん」で、数多くの「生き方指南」的な本を残している。彼の言葉に「焦らない。でも、あきらめない」があり、この時期になるとこの言葉をいつも思い出す。22年前の1月17日に阪神大震災・・・、当時兵庫県に住んでいた自分も少なからず影響を受け、本当に心が折れそうになったことも。22年前に限らず、やはりこの時期にセンター試験の結果に一喜一憂し「焦り、あきらめ」そうになったことも。むろん当時の自分よりももっともっと大変な思いや経験をしている人が沢山いることは百も承知だが、神戸が復興したのも自分がとりあえず元気に?!今があるのも「あきらめなかった」ことに他ならない、これだけは確実に言える。ついつい「焦り」りそうになるが、焦らずコツコツとあきらめなければ必ず「いい日」が来ると信じている。今、大変な状況であったとしても「焦らず、あきらめなけれ」ば素晴らしいサプライズ、どんでん返しが稀に起こることも。ボチボチと前進。
2017/01/18 12:32
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ライオンになれ
先日、生徒が持参したテストの解説(自分自身にとっては初見)をする様子を「先生、ライオンの目をしています」とたとえられたのだが・・・生徒達に言いたい。「ライオンのどこが悪い?君たちもライオンになれ!」と。ライオンは獲物を一瞬で見つけ、獲物を襲うチャンスをじっくりと伺ってから仕留める。自分自身は生徒からの質問を受ける際には、時間を無駄にしないため、問題用紙や生徒が書いた解答を一瞬でパッと読んで(見て)答えるようにしており、その時の目が相当怖かったようだが・・・。むろん指導者ではない生徒たちにそこまでのスピードを要求はしないが、それでも試験となると時間内でいかに速く正確に理解して解くかが重要となってくる。つまり、出来ることならば一瞬でパッとキーワードやキーセンテンスなどなど重要な部分を探し、それらをヒントにしながら正しい解答を導く必要があり、それはまさにライオンが獲物をとる過程と同じ。ではどのようにしてそれらの能力を伸ばすか?①手持ちの本をパッと適当なページで開け、瞬時でキーワードを見つけたり、大切な文を見つけるという遊びを時々やってみる②内容を正確に把握する練習として、テストやテキスト内の説明文を200~400字で要約し、指導者に添削してもらう、という2点が有効。②に関してはかなりの労力と時間を要するが、必ず力がついてくるのでぜひお試しを。
2017/01/17 00:40
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「たとえる技術」(本の紹介)
かなり前にのブログに書いたのだが(アメブロを始める前)、自分自身は想像力はあるが妄想力が欠如している。よって・・・ユーモアやウィットに富んだオリジナルな「比喩」「たとえ」を使うことが苦手である。そんなわけで少しでも苦手な分野を克服すべくして、「たとえる技術」(せきしろ著 2016.10.18第一刷発行 文響社)を最近読んだ。中でも印象に残ったのが「ありがたい」気持ちを表現するための具体例で、「あのアドバイス、謙信から送られてきた塩のようにありがたかった」(P246~247)には思わず笑ってしまった。むろん、こういう表現を使うためには相手を選ばなくてはならないが(戦国時代、塩がなくて困っている武田信玄に対して、上杉謙信はライバルであるのにもかかわらず塩を送り「敵に塩を贈る」の語源になった逸話を相手が知っていることが前提)。正直言ってこの本の中で紹介されている比喩的表現はあまり実用的ではないが、比喩(たとえ)を使うことによって①説得力が増す②空気が和む、という利点があるなあ~と勉強になる。何事も勉強!少しでも魅力的な比喩を使えるよう楽しく再読中。ちなみに先週、生徒二名から「先生ってライオンみたいですね。さっきの目は獲物を追う目でした!」と例えられてちょっぴり複雑である。
2017/01/16 01:27
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表現の自由
昨日の記事「国語の解き方」が、アメブロで反響が大きく、びっくりするやら嬉しいやら。これはひとえに同業者の方がリブログして下さったからだと感謝している。さて、かなりの独断で書いたのでブーイングの嵐?それはそれでOKと高をくくってたところ、逆に共感していただくことが多く嬉しい限り。正直言って国語ほど指導者によって主張する内容が違う科目はないなあとつくづく思う。むろん、どの先生の説が正しいかをジャッジするつもりはないし、生徒それぞれが自分に合ったやり方を実行すればいい。ただ、自分のポリシーとしては昨日書いたように「国語の問題を解く」=「論理的に」で、考え方としては数学的思考と言えるかもしれない。先週、某生徒が「先生、国語と英語って似てますよね?」と言ったが、思わず「は???確かに『語学』という点においては共通だけど、解き方の考え方としては数学的思考で、数学の方が似てるよ」と答えた。彼の顔には「?????」と書いてあったが知らん顔しておいた(苦笑)。でも、数学をはじめとして他の科目と明らかに違うところは「国語の表現には自由さがある」という点。だからこそ、人様が書いた文章を読んで問に答える時は客観的に考える必要があるわけだが。小学5年生のテキスト内に「すっかり舞い上がってしまった私」という表現はどんな様子か?と答えさせる問題があった。文脈から答えは「緊張している様子」なのだが、某生徒は辞書で調べて「なんだかおかしいなああ」と思いつつも「嬉しい様子」と答えて×。つまり、自分が作文やエッセイ、はては小説を書く時には一般的な表現から逸脱しても許されるという自由がある。だから国語は楽しい!と昔から感じており、今はそれが仕事になっている。先ほどの「すっかり舞い上がってしまった私」・・・は俵万智氏の「母と私と台所」のエッセイの一節である。
2017/01/15 12:42
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国語の解き方
数か月前、某生徒から俳句・短歌についての質問を受けた。他塾のテキストだったのだが・・・見た瞬間に啞然!なぜなら真っ白だったから。5・7・5・・・で線を入れずしてなぜ「何句切れ」「切字は?」という問に答えることが出来るのか?と思わず生徒に詰め寄ったところ「(他の)塾の先生が書き込むなと言ったから・・・」とのこと。「じゃあ、書き込まずして今まで点数取れた?取れていないから4月から国語塾にも来てるんだよね?あれほど接続語、キーワード、矢印などを書き込めって言ってるよね!」と思わず冷たく一言。自分のやり方で解いて国語で高得点を取れる人は今から書くことは無視してもらえばいいが、国語をどうやって解いたらいいの?と迷っているならば次の3点をぜひお勧めする。①問に先に目を通しておくこと②問題文を汚すこと(段落に分ける、キーワード、キーセンテンス、接続語、文と文の関係性を矢印で結ぶ、俳句や短歌では5,7,5・・・で分けるなど)③読みながら解ける問題は解いていく(時短+正答率を上げるため。本文をすべて読み終わってから「さあ、解こう」としても内容を忘れてることがあり、また心情表現の穴埋めは読みながら分かることが多いから。接続語を入れる場合も基本は□の前後2文の関係性が重要で、文章全体ではないから。)つまり、国語で点数を取るためには文章や内容の構造を理解することが大切で、そのための理解を助けるために様々な工夫が必要となる。「国語の成績を上げるには本を読め」が必ずしも「真」ではない所以がこのあたりにあると思う。本をいくら読んだとしても、それらを「ああ、面白かった」「楽しかった」で終わらせるだけならば国語力にはつながらず、内容をきちんと理解し構造化する習慣が出来て初めて国語力につながるから。
2017/01/14 17:36
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心情表現
中学生以上の国語の小説の問題文では、必ずと言っていいほど「心情」「気持ち」が問われ、登場人物の会話や行動から心情を読み取って「・・・で、~~な気持ち」と答えなくてはならない。文中には露骨に「嬉しい気持ち」「悲しい気持ち」「~と思った」という表現はほとんどなく、大抵が「胸がわくわくした」「目の前が真っ暗になった」というような比喩的表現ばかり。言い換えると、文中の「~と思った」「~のようの感じた」という表現があれば、それはかなりレア!当然、要チェック!!!直接、心情を答えさせる問の答えにはなりにくいが、別の場所で心情を表す比喩的表現に傍線が引いてあり、その「傍線の言いかえを文中から抜き出せ」という問の答えになることが多い!しかも傍線部と「~と思った」「~と感じた」の部分はかなり離れている。つまり、小説を読むときに初見の段階で読みながら「あ、この表現は貴重だ!」と最初からチェックを入れておくと後で焦らずに済むが、問を読んでから「え???傍線の心情の言いかえ?どこ??」と最初から読み返したところで、なかなか答えが見つからない。しかも時間切れになってしまうのがオチ。具体的に演習を2つほど実践してみたところ、生徒たちは皆納得した。とはいえ、放っておくと「早く読まなくては!」という気持ちが先走り、貴重な直接的な心情表現にチェックを忘れてしまう。何事も学んだことは繰り返し実践することが大切。
2017/01/13 12:22
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作品の背景や意味
先週、野球部で頑張っている生徒たちに「正岡子規は野球が大好きで、俗説だが正岡子規が野球と名付けたという説がある」等、具体的に話したところ「嘘だ~!先生の作り話だ」というブーイング。今週、ネットから資料をプリントアウトして生徒たちに渡した。正直言って正岡子規が野球好きだったことと俳句は全く関係ないが、ちょっとした背景やエピソードを知ることによって生徒たちの記憶に定着しやすいと思い、知ってる限りの背景やエピソードは伝えるようにしている。他の先生方もブログで似たようなことを書いてらっしゃるが、大量に問題集をこなして答え合わせだけして終わり・・・では本当の力はつかないという意見には大賛成。特に国語は「解き方パターン+背景」を知っておかないと理解できないことが多いから。例えば「いくたびも 雪の深さを 尋ねけり」という正岡子規の作品の鑑賞がテストに出たとする。彼は長く結核を患っており、若くにして亡くなったという背景を知っていれば、病床にある正岡子規は自分では起き上がって外の雪を見ることが出来ないため外の雪の深さを幾度も家の人に尋ねる、つまり自分で雪を見ることが出来ないもどかしさを歌っていると分かる。通塾歴3年目の某生徒は「正岡子規は病気で若くで亡くなったよね。『柿食えば 鐘が鳴るなる 法隆寺』も彼の作品ですよね」と解説してくれ、ホッ。それに対し・・・本年度から通塾している某生徒は「正岡子規ってどんな人でしたっけ?」とポツリ。え?学校でも習ったよね?と思いつつ・・・彼の知識が白紙だということが分かったため、今日、2年生の英語教科書に掲載されている正岡子規に関する英文を渡す予定。彼は英語が大好きなので、英文で読んだら心に残るかなあと言う戦略。演習は大切だが、背景をや意味を理解することも同じぐらい大切。
2017/01/12 12:39
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現実を見る
突然だが、生徒には「年齢不詳」あるいは「永遠の28歳(平成生まれ)」ということにしているのだが、相変わらず生徒からの厳しいツッコミが。昨日、某生徒から「先生、本当は何歳?」と質問されたので「だから~、28歳だって言ってるでしょう!」と答えると「先生、そろそろ現実を見た方がいいですよ」と温かい(冷たい?)一言。うーん、確かに「現実を見る」ことは大切だなあと実感。とはいえ、彼にとっての「現実を見る」は「現実を見て、理想や夢みたいなことをあきらめる」と意味合いだが自分にとっての「現実を見る」は少々意味が違う。「現実を見る」ことによって現在足りない部分を把握し、そこを補うことによって理想に一歩でも二歩でも近づいていくこととしてとらえている、つまり「現実を見ることによって夢や理想に近づくこと」だと認識している。自分自身の年齢に関して言うならば「現実=20代の頃に比べると体力が落ちており無理が利かなくなっている⇒日ごろからのメンテナンスに気を配っており、おかげで20代の頃に比べると明らかに健康的で体調は万全」なのだ。「現実を見る」ことは重要だが、その「現実」をあきらめとしてとらえるか理想への一歩へととらえるかは本人次第、若い人にはぜひとも後者でいてほしいと願う。さらには来週、彼に「沙石集」の中の一話(実年齢は74歳だが、60歳に余る事14歳と言うことによって少しでも自分の年齢を若く思わせる僧侶の話)の演習をさせることによって「昔の人も今の人も年齢を若く見積もる傾向がある」という現実を見せようかと思案中(苦笑)。
2017/01/11 08:38
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自由な発想
国語の設問を解く時、「客観的に文章を読み、そこからヒントを探して解く。自分の考えは入れない事」と口酸っぱく生徒に言っているが、それは設問を解く時であって日常生活においては「自由な発想、視点」を常に持ち続けることは大切、要は時と場合によって切り替えが出来るのがベストか。さて、先週の中学生授業ではテストや入試でよく狙われる作品「十訓抄」の中の「蜂飼いの大臣」(今年の中三学力テストに出題された)を演習した。平安時代後期の公卿で藤原宗輔という人がおり、彼は太政大臣で別名〝蜂飼大臣(はちかいおとど)〟という異名を持っていたというところから物語が始まる。なぜ彼が〝蜂飼大臣〟なのか?実は彼は蜂を手なづけるという特技を持っており、それにまつわるエピソードが書かれた作品。一通り演習を終えた時に某生徒がポツリと一言「皆は宗輔に対して『無駄なことをしてる』とバカにするけれど、蜂って実はすごく役立つんですよね。植物が受粉するためには絶対に必要だし・・・蜂をバカにしてはいけないよ」と。蜂=蜂蜜のイメージが強いが、さすがは農業圏に住む生徒、蜂蜜採取以外でも農家さんにとって大切な役割をちゃーんと知ってるんだなあ、しかも蜂=怖い以外で冷静に判断するって偉いなあと感心した。演習後、同じく十訓抄に出てくる「蜂の報恩」について紹介したところ、別の生徒が「え~?恩返し?それって『鶴の恩返し』のパクリじゃないですか?」とバッサリ。彼は中一ということもあり、まだ数えるほどしか古文作品を解いたことがないのだが、鋭い指摘に思わずうなってしまった。説話は教訓的内容が多いため「恩返し系」が多数存在する事、具体的な作品などを紹介し、テキストにある「亀の恩返し」を演習(ちなみにこれも中三学力テストに出題された)。大人になると目の前のことを何の疑問も抱かずに黙々とこなすことが当たり前になりがちだが、ちょっとした「気づき」「発見」「発想」を持っている若い感性を見習いたいと思い、彼らには今のままの自由な発想、視点を持ち続けてほしいと願う出来事であった。
2017/01/10 09:09
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成人
今日は1月の第二月曜日、日本では成人の日となっている。一応20歳からを一人前の大人と扱う節目のお祝いの日というわけだが・・・・。自分自身をふり返ってみると20歳の頃と今とを比べると学力的には明らかに20歳の頃の方が上!!!あらゆる科目に関して満遍なく「暗記」していた頃。最近、日本史のプロでいらっしゃる野島博之先生のブログにセンター試験対策問題がアップされており「頭の体操!」とばかりに解いてみるのだが・・・悲しいかな、日によっては撃沈しショックを受けるのだ。あんなに頑張って覚えたことがこんなにもスッポリと抜けてしまうなんて!としばらく呆然としながらも「知識などをそぎ落とした状態で、残るものが、その人の本質だ」と言った内容の文章をどこかで読んだことがあり(出典をきれいさっぱり忘れてしまっている…( ノД`)シクシク…)、きっと20歳の頃よりも「人間らしい魅力を身につけているに違いない」と無理やり自分で自分に言い聞かせている。長く生きたから「人に成る」のではなく、何も考えずにボケ―ッと生きているだけでは「長く生きた生物」にしか過ぎない。ちょうど20歳と言えば、大学に行って好きな勉強をする、社会に出る・・・と人それぞれ進む道が違ってくる頃だが、どんな選択をしようとも「学ぶ」ことは一生、「学ぶ」ことによって「人らしく成る」、さらに言うならば「学ぶ」ことが純粋に楽しくなるスタート地点だよと新成人にエールを送りたい。
2017/01/09 00:01
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