めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
終わり良ければ・・・、勝てば官軍
先日の日曜日、十勝管内の中学校で体育祭が行われた。体育祭の後には・・・「作文」がお決まりコース。どんな風に書こうかと考え込んでいる某生徒に、当日の話を聞きながら「終わり良ければすべてよし」という慣用句を書いたら?と提案した。なぜなら①この有名な慣用句を知ってほしい②字数を稼ぐことができる、という2点の理由からだ。その生徒が書こうとしていたエピソードというのは、クラス対抗大縄跳び。クラス全員で大繩を跳び、記録を競うという競技で、2回チャンスが与えられ2回のうち良いほうの成績を採用するというルールだとか。ちなみに某生徒のクラスは1回目の跳躍で学年トップ、2回目の跳躍は他のクラスが跳び終えた後に始めた(この段階でも学年トップ)のだが、気が緩んだためかなんとなんと0回という結果に終わった。が、初回の記録を採用されるため結果として学年トップになった。結果はもちろん嬉しかったそうだが2回目の跳躍で0回に終わったことに対してのクラスの雰囲気や対応がよかったということを書きたかったそうだ。さて「終わりよければすべてよし」の意味は「途中、紆余曲折、失敗や苦労や挫折などあったかもしれないが、結果が出せたのだから、途中経過にこだわらず、成功を享受しよう」という前向きのメッセージとして使われることが多い。似たような言葉で「勝てば官軍負ければ賊軍」がある。こちらの意味は「どんな姑息な手段・卑劣な手段を使ってでも結果がよければそれでいい」的な意味合いが強い。正直言って自分を振り返ってみると・・・基本的に曲がったことが嫌いで姑息な手段や卑怯な手段を選んでまで勝とうとしたことはないが、ある意味「終わり良ければすべてよし」とばかりに途中経過が少々みっともないようなことがあっても気にせず、一言でいうと泥臭い状態で努力したことは数知れず。若い子たちも「勝てば官軍」ではなく「終わり良ければすべてよし」をモットーに泥臭く努力しよう!と伝えたい。
2017/05/31 02:43
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教え子のその後・・・
6年前から3年間、一緒に勉強を頑張ったMちゃんのお母様に日曜日に出先でばったり出会った。6年前はまだ国語塾を開いておらず、家庭教師としてMちゃん宅に伺っていたためお母様ともツーカーの中。Mちゃんは先日ブログで書いた「素直で努力家」の典型的なタイプ。現在高校3年生、初志貫徹!で公務員を目指して早朝7時半から学校で公務員対策の勉強をしているそうだ。また、Mちゃんのお母様の紹介で入塾し、先日卒業した某生徒のことも伺うことができた。その生徒も将来を見据え、自分の意志で普通科ではなく専門的な方面の高校を受験したところ・・・なんとなんと最初のテストで学年で一番だったとか。彼も「素直で努力家」タイプで、結果としてレベル的には実際の実力よりも下のランクに進学しているためおそらくトップクラス、それをキープするだろうなあと勝手に想像しており、まさに最高のスタートを切っていると知り本当に嬉しい限り。個人情報保護が厳しい昨今、基本的にはこちらから生徒の情報を漏らすことはあり得ないし、生徒の保護者が他の生徒のことをおっしゃることはほとんどないのだが、今回に関しては「良い話」「保護者、生徒ともに気心が知れている」ことから嬉しい報告を聞くことができたという次第だ。直接、卒塾生のその後の頑張りを聞くことはなくても彼らはそれぞれの分野で本当に努力し頑張っているようで、時々、地元の新聞で名前や写真が掲載されている。それらを発見して見たり読んだりするのが最高の楽しみであると同時にこんなにも素晴らしい彼らの中学時代に一緒に勉強することが出来たということに対してただただ感謝の気持ちしかない。また、正直言って開塾当初はいろいろと試行錯誤の連続で、生徒の質というものも・・・「?」のことがあり、退塾勧告をしたこともあった。が、が、が、おかげさまで現在国語塾に在籍している生徒たちというのが、素晴らしく「いい子」達ばかり!!!将来が楽しみである。
2017/05/30 02:20
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「空気」を読むべし
「国語では自分の主観を入れてはいけないとは分かってるのですが、本文を読んでるときに『え?本当にそうかなあ?自分はそうは思わない』とか考えてしまうんです。」と某生徒がポロリと発言。「それはいいことなんだよ。作者の意見に対して分析すること自体は悪くないし、意見文や小論文を書くときにはそういった姿勢が大切になるよ。主観を持つのが悪いのではなく、解答に自分の主観を入れて答えるのがダメということだよ。」と伝えると納得してくれた。補足として「作者の意見が合ってるかどうかを判断するのではなく、作者は〇〇と主張しているという立場をとるべきで、言い換えるならば国語の設問はある意味出題者の意図を読むという感じかな。小論文などは作者の意見と向き合うことになるけれど。」と伝えた。とっても純粋でまっすぐなその生徒は「自分は人の顔色や心を読むのが一番苦手なんです・・・・。」とかなりネガティブオーラでのさらなる発言。思わず「私だって読めないよ。君や私だけではなく人の心を読める人のほうが少ないし、心を読める人がいるならばそれは特殊能力を持った人。それがいいかどうかはまた別問題。知らなくてもいいことを知ることになるんだよ。」と必死でフォローすると、ようやく笑顔になった。「人の心を読めない・・・。」と言っているが少なくともその生徒は「空気は読める」ので人が傷つくような発言などはむろんせず、以前に「自分はネガティブ80パーセントです・・・」なんて言っていたが「君は君のままが一番!」と伝えた。例えば複数人で、いわゆる有名店に食事に行ったとする。その時に「評判ほどには美味しいとは思わないなあ」という主観を持つのは否定されるべきことではないが、それを口に出す(国語の場合で言うならば、解答として書く)の避けるべきだということ(一般的には)。どんな発想でも自由だが、その発想を今現在、正直に公表してよいかどうかを冷静に判断する(空気を読む)ことが国語の解答する以外の日常生活でも要求されることだよなあと漠然と考えた。日常生活において、それはいわゆる礼儀だから。礼儀をわきまえてさえいれば人の心なんて読む必要はないし、読めなくて大いに結構!と思う今日この頃。
2017/05/29 03:11
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「素直」「努力を続ける才能」
長年、小中学生を指導してきて思うことは、本人にとっていわゆる「良い人生を歩む」「成功を手に入れる」ための秘訣は次の2点に尽きるということ。①素直であること②努力を続ける才能を持っていること。第一希望の学校に合格するためには「生まれつきの理解力」というものが少なからず影響するのも事実だが、たとえ優れた理解力を持っていたとしてもそれを使いこなさなければ意味をなさないわけであって。。。ん十年前に、地元のトップ校を目指している女生徒がおり、さすがはトップ校を目指すだけあって理解力は抜群だったが正直言って「素直さ」に欠けていた。もう一歩成績を上げたい!と入塾したにもかかわらず「自分のやり方」にこだわってしまい結局は第一希望に入れなかった。彼女と一緒に入塾してきたもう一人の女の子は、親が「もう匙を投げました」というぐらいのタイプだったのだが・・・・とにかく素直で、しつこく努力ができる子で、結論を言うと当初の目標よりも高い高校に合格。保護者は、高校卒業後は「専門学校に」から「やっぱり短大に」→「やっぱり大学に」と変わっていき、無事に4年生大学に合格、就職も自力で有名企業に。今は子育てしながら仕事も頑張っている。現在、国語塾に来てくれている生徒たちは皆個性的で(いい意味で!)、理解力も個々人でバラバラ。中には勉強は苦手だが、素直で努力家のタイプもいて、その子をみると「この子は大丈夫」と、思わず上から目線ながら思う。たとえレベル的にトップランクの学校でなくても「素直」「努力を続ける才能」があれば、幸運の女神が微笑み、本人の持ち味を生かせる職業に就き、幸せな人生を歩めるだろう。「幸運の女神」なんていう表現を使うと怪しく感じるかもしれないが、言い換えると「素直」で「努力を続ける才能」を持っていると周囲が放っておかず必ずキーマンに可愛がってもらって引っ張ってもらえる。自分は決してキーマンといえるような立派な人間ではないが、「素直」「努力を続ける才能」を持ったタイプへの応援は今も昔も惜しまない。
2017/05/28 00:51
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矢印の向き
長文を解くときには本文を色々とチェックし、=、≒、↔、→、←をつけると口酸っぱく言っているが・・・。この中で一番気を付けるべきものは、片側矢印の向き。例えば「〇〇〇→(だから)→△△△」「△△△←(なぜなら)←〇〇〇」といった具合に理由や結果を表す接続語の場合、矢印の向きがどちらなのかを見分ける必要がある。もう少し分かりやすく言うと「理由・原因→(だから)→結果」、「結果←(なぜなら)←理由・原因」という図式が成り立つ。「・・・はなぜですか?」という問は頻出だが、その時に傍線部の前、後ろのどちらが原因で、どちらが結果なのかをじっくりと検証する必要があるのだが、いざ本文に「だから」「なぜなら」と書いてあるとこれらの接続語の前後どちらを選んでも「~から」という理由のように思えてしまいよほど気を付けないと引っかかってしまう。今週の中学生クラスで行った記述問題の演習が、まさにこのようなひっかけ問題になっており残念ながら全員引っかかってしまった。また、本文の内容にあっているかどうかの選択においてもこの因果関係(矢印の向き)が逆になっているものに引っかかりやすい。なぜなら、選択肢として作られている文には本文に書いてある内容がきちんと網羅されているから。でも実は原因と結果が逆になっているというひっかけがあるのだ。たかが「矢印の向き」されど「矢印の向き」、会話であればスルーされることなのだが紙面に書かれているものに関してはきちんと因果関係を把握するよう意識しよう!ちなみに→は一つに輪になって循環するから面白い。例えば「勉強が嫌い→勉強をしない→成績が最悪→ますます勉強が嫌になる(元に戻る)」という具合に。くれぐれもこういったマイナスの循環ではなく「一生懸命勉強した→成績が上がった→ますますやる気が出る→一生懸命勉強する(元に戻る)」というプラスの循環を目指してファイト。
2017/05/27 04:25
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「視覚」に訴える
昨日の小学生授業は「問では何を聞かれているかを把握する」がテーマだった。授業開始時に生徒たちに「君たちは何歳って聞かれたらどう答える?」と突然の質問をした。某生徒は「僕は11歳だよ。分かった!何歳って聞かれているのに小学5年生って答えてはだめってことでしょう?」となんとも素晴らしい回答だったのだが・・・・。彼の宿題をチェックしようとテキストを開くと・・・・「この話は主人公が何年生ですか?」という問に対して「昭和14年」と書いてあるではないか!!!「は??昭和14年生ってなにそれ????」と思わず突っ込んだ。さらには別の生徒は「数字で答えなさい(問題用紙に①~③までの通し番号あり)」に対して「ア、イ、ウ」を使って答えている・・・。思わず、まさに今日のテーマは彼らにぴったりと思うと同時にがっくり。彼らはリスニングはよくできており、授業もきちんと聞いてくれ、授業最後に「今日やったことは?」と尋ねるといつも完璧な答えが返ってくる。にもかかわらず文字となるとミスをする。それはなぜか?「何を問われているか?どう答えるべきか?」を意識していないからに尽きる。ミスを防ぐために本文のみならず問にも「数字で」「何年生」「最初の一文を」「なぜですか」「どういうことですか」などには線を引くなり、囲むなりするように指導。面倒くさいという意識が先立ってしまい、なかなか印をつけるということは定着しないが、人間の脳は情報を自分に都合よく処理するため、印をつけていると「大切」と判断するが、逆にノーチェックだと勝手な思い込みのままになってしまう。それが証拠に、昨日は数か月ぶりに紛失していた傘を見つけた自分自身。数か月前にどこかに傘を置き忘れてしまったのだが、昨日図書館の傘立てで偶然に自分の傘に再会!!!図書館には頻繁に行っており傘立てのそばを毎回通っているにもかかわらず全く目に入っていなかったという次第。なぜかたまたま昨日は視線が前後左右にいったようで・・・。そんなこんなで、とにもかくも「視覚」に訴える工夫が大切だ。
2017/05/26 14:35
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楽しく、嬉しかったラジオ出演
昨日のラジオ出演も最高に楽しかった~~~!楽しかったのみならず、とっても嬉しいことが。実は来月から担当者がM様ではなくなるとのこと。「???」と思われたかもしれないが、実は近々ご結婚されるそうで名字が変わるのだ。おしゃれで明るくて素敵なM様を射止めた方はどんな方?!と思いつつ話を伺うと、なんとなんと国語塾を先日卒業したT君の通っていた別の塾の先生だとか。国語塾に通塾している生徒の大半はダブルスクールで、T君も忙しいスケジュールを調整しながら各塾に通塾していたのだ。T君とは、ちょくちょくこのブログ、ブログのみならず3月下旬に国語塾の教室からの生中継のラジオ番組に出演してくれたナイスガイ!たまたまM様の婚約者がラジオを聴いてらっしゃったのか、あるいはM様が婚約者に「先日、国語塾の実況中継時にT君というとってもいい子が来てくれて・・・」と話し、「あれ?その子のこと知ってるよ」といった会話がお二人の間で交わされたのか?!M様の婚約者であり、T君の恩師には直接お会いしたことはないがM様が選んだ方だからきっと素敵なんだろう~と勝手に想像すると同時に同業者としての親近感を抱いている。同業者とはいえ、かたや総合塾、かたや一科目専門の塾なので、昨日のラジオ放送のテーマである「勝ち負け」といった概念は全くない。そもそも土俵が違うので勝負しようがないというか・・・だから生徒に「国語以外の科目を教えてくれる塾を探してるんですが・・・」と言われると大賛成しその生徒に合った塾はどこかと探したりしているぐらいで・・・。つまり近所には塾が乱立しているが、自分にとっては競争相手ではなく共存共栄する対象といった感じだ。M様、M様の婚約者である塾の先生には心からお祝い申し上げたい。そして来月はM様ではなくS様となられる彼女から幸せオーラを頂けるかなと今からワクワクしている。
2017/05/25 02:12
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かんとう賞
今日(24日水曜日)は月に一度のラジオ生出演!とってもワクワクしながらメールで担当者のM様と打ち合わせをした。ちょうど運動会や体育祭シーズン、さらには先日「負けるが勝ち」というブログ記事を読んで下さったM様の発案で「勝負」についての言葉をテーマに。さて、担当者M様は運動会のかけっこで「かんとう賞」というシールを帽子に張られたとか・・・(☜頑張ってたんですね!)。ちなみに「かんとう賞」=「敢闘賞」、「強豪を相手に勇敢に闘った人や団体に送られる賞」で漢字を見ると分かるが、耳で聞いただけでは分かりづらい。自分自身がこの言葉を知ったのはかれこれ〇十年前の高校3年生の時。なんとなんと48年ぶり?!に自分が通う高校の野球部が兵庫大会でベスト4入りし、その時にわが校の野球部に「敢闘賞」が贈られのだ。何十年かぶりの快挙ということで時間的に都合がつく学生たちは張り切って応援に行った(もちろん友人たちと応援にかけつけた)。惜しくも決勝には進めなかったのだが、まさかのベスト4入りでわが母校の生徒たちは皆、悲壮感なんて全くなく、さわやかな空気が漂っていた。これが皆から期待されている、伝統のある強豪校ならば「ベスト4?信じられない」と悔し涙を流すのだろうが(苦笑)。その時に初めて「かんとう賞」なるものを知ったのだが、野球部に贈られた賞だったため「完投賞」だと思い込んでいた。強豪校を相手に最後まであきらめずに試合をやりきったという意味で「完投賞」だと勘違いしていたのだ。当たらずとも遠からず?!翌日の新聞で「敢闘賞」という漢字を知った次第。スポーツに限らず勉強も「やりきった」といえるぐらい努力すると、最後はさわやかな気分を味わえる?!日々「敢闘」を目指してファイト。
2017/05/24 01:42
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センスある文章
伝え方って大切だとつくづく感じることが昨日あった。伝え方が大切ということは、今更言われなくても皆、百も承知なのだが具体的にどうすればいいか?と日々試行錯誤するのが常である。かくいう自分自身もそのうちの一人だ。作文や意見文ではいわゆる「型」があり、それらを生徒に紹介するのだが、別に「型」にこだわらなくても良い内容をメールする時でも事務的な文面になってしまう自分がいる。そんな中、昨日はぜひ見習いたいと思えるメールをいただいた。先日、何気ない日常のことを書いたメールを友人に送ったのだが、返事を書くのは大変だろうし申し訳ないからと「返信不要」と書いた。すると友人は「猫」の立場で「ご主人様はお風呂にはいっていますので私が代わりにメールをしております。」という文面に始まり…最後は本音炸裂で「・・・と上から目線で言ったりして…女って怖いですね」と締めくくったメールをくれた。つまり相手が恐縮しないようにと、わざと書き手は「猫」という設定にしてくれたのだ。思わず友人の心遣いに感謝するやら、「おおっ、現代版の『吾輩は猫である』だああ~~~」と大笑いするやら。と同時に「これ、使えるなあア~」とあれこれ妄想、自分とは全く「別物」になることによって①自分自身を客観視できる②人に伝える時にインパクトを与えることができる③本音を言うときに「言ってるのは自分ではなく、あくまでも別のもの(猫)ですよ」とワンクッションを置くことができる、などなど。とはいえ、では何になりきるかによってセンスが問われる?!自分自身も時々、ふざけてみようと変わった文面で書いてみたり、自分の意見を「○○が言ってます・・・」と書いてみるのだが、正直言ってへたくそ。うーん、センスがある人はうらやましい・・・。何はともあれその点、学校の課題や入試で求められる文章というのは「型」が決まっているので、ある意味やりやすい。来月の中旬~は意見文の課題決めに取り掛かる予定、毎年「意見文」「読書感想文」「作文」で困っている方はぜひぜひ国語塾をのぞいてみては?!
2017/05/23 01:45
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負けるが勝ち
「負けるが勝ち」という慣用句がある。それについて興味深く、なおかつ成程!と思える文章を見つけたので紹介する。「負けるが勝ち というのは、相手に勝ちを譲ってやることが、結局は相手に勝つことになるという意味である。それはどんな場合か。相手と対等の場に立たず、相手よりも優越した次元に身をおいて負けてやることができる、そうした場合である。もっと具体的にいうなら、『負ける』という日本語の中には、相手に花をもたせ、自分は実を取る、そのような暗黙の計算がふくまれているのだ。」(「日本語 表と裏」森本哲郎著 P197より抜粋)。「負ける」というと「マイナス」のイメージが強いが、この慣用句で使われている「負ける」はある意味プラスという意味で、よく言えばここに日本人の「和」を重んじる思想、悪く言えば日本人独特の「あいまいさ」が含まれているのだろう。個人的にはこの「和」や「あいまいさ」は大切にしたい部分で、それは今までに何度となく「負けるが勝ち」を実行できずに失敗したからである。お互いに「自分が正しい」と思っているため真正面からぶつかり、勝負がつかないまま気まずい雰囲気になってしまったことがしばしば。次元が違うタイプには正論?が通じるわけもないと割り切る方が気分を害さずに、しかも結果として相手との関係性をうまく保てるなあとつくづく感じる。何でもかんでも白黒をはっきりさせることが大切なのではなく、時には敢えて「あいまいさ」を残すことも大切だなあと考える。また、言い方を変えると「負けるが勝ち」は「相手のことをとりあえず一旦受け入れますよ。そして花を持たせてあげますよ。ただ完全な同意はしかねるので自分は実を取ります」という双方にとってプラス面があり、今後少しずつ実行していきたい慣用句の一つである。
2017/05/22 10:35
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