めむろ国語専門塾
- ブログ
小さな国語塾のつぶやき
でっちあげ?
「は~っ、またでっちあげなくてはいけない・・・。クラスのほとんどが『でっちあげ』の作文だよ~。」「○○なんてバザーの仕事中に『小さい子可愛い~。』と大はしゃぎだったんだよ。バザーの仕事で学んだことなんて絶対になさそう(☜おいおい勝手に決めるな~)。自分もバザーの仕事は楽しかったけれど別に学んでないし。」とぶつくさ言いながら金曜日が締め切りの作文を一生懸命に書いていた某生徒。先週の日曜日に行われた学祭についての作文を書くよう、宿題が出されたらしい。一応「学祭のことについて作文」というお題なので、もしも正直に書くならば「別に学んだことはありません。」となるのだろうけれど。学校側からの「行事を通して学んだこと」を書くように!という意図はきちんと読めているのだが、嘘はつきたくないし、つけないし・・・という葛藤があるようだ。ちなみにこの葛藤をかなりの生徒が抱えており、毎回のように何人かが「自分ってほら吹きですよね~。」「え?嘘を書けってことですか?」「そもそもが学校行事って面倒だから苦手なんですよね・・・。」と迫ってくる。その度ごとに「別に嘘をつけとは言っていない。ただ、出題者の意図を読んでその意図に即した文章をいかに上手に書くか?の訓練をしている。だから作文は難しいよね。その点、小論文は書き方をマスターすると意外と書きやすいよ。なぜなら自分の意見をきちんと書いていいから・・・・。それまでは辛抱辛抱。」と伝えている。どうしても嘘っぽいことは書きたくないならば、本音をいかに出題者の意図につなげるかが課題となり、それをクリアできるようになったころには文章力が大幅にアップしているはず。例えば、バザーの仕事においての本音が「小さい子可愛い」がメインだとするならば「小さい子たち、本当にかわいかったです。彼らが将来、中学校への入学を楽しみにしてくれるようにと一生懸命仕事をしました。」といった具合に本音を入れつつもなんとか無理やり、バザーの仕事にこじつけるとか。中学生の頃は本音と建て前をうまく使い分ける練習をする頃、だらこそいろいろなことを感じるのだとは思うけれど、それらはすべて自分の成長のための糧になっているはず。これからもブツクサいいならでも頑張ろうね~と内心でエールを送っている。
2017/10/08 04:08
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
菅原道真≒雷神☞蕾
「菅原道真」という名前から思い浮かぶことは?と聞くと「学問の神様!」という答えが大半!。次に「遣唐使廃止を提案した人」という答えが返ってくる。むろんどちらも正解なのだが、受験生にとっては「菅原道真」=「学問の神様」=「神頼み」という図式が毎年成り立っている・・・。「父親が出張で九州に行った際に買ってきてもらった~。」と太宰府天満宮の赤いお守りを見せてくれた某生徒。「神頼みもいいけれど、蕾(つぼみ)のまま落ちずに蕾から大輪の花を開かせてね~~。頼むよ~、もう日が限られている。」と心底訴えたい気分。さて、なぜ菅原道真公が「学問の神様」としてあがめられているか?これについて有名な話が残っており、「あ、知ってる」「聞いたことがある」という方々も多いだろうが簡単に記しておく。学問を極めた菅原道真だが、政敵に嵌められて最期は転落人生。その死後、落雷や病により次々と菅原道真を嵌めた人物が亡くなり、その祟りを恐れた人々は菅原道真を天神として祀ることにした。ではなぜ天神か?雷を落とすということは雷神、つまり天神なのではという当時の人々の推測から、菅原道真は「天神」として天満宮に祀られることになった。そして後世になると「怨霊」というより「学問を極めた人物」という側面がクローズアップされ、現在では「学問の神様」と呼ばれるようになったそうだ。確かに「怨霊」の方がクローズアップされるよりも、本当に優秀であったらしい道真公の「学問を極めた」部分をクローズアップされる方が直接の子孫はもちろんのこと、後世の人々にとっても気分がよい。ところで表意文字である漢字は、本当に興味深く、「蕾(つぼみ)」は「草が雷になる」という組み合わせ。つまり「草の部分がパワー(力)を蓄えて雷になる☞そのパワーが炸裂すると美しい花が咲く!」と言える。雷はパワーが大きいため昔から「地震・雷・火事・おやじ」と恐いものの代名詞のように使われているけれど、パワーの使い方を間違わなければ素晴らしいプラスのものに変わるか。少なくとも若い子たちは努力して一生懸命勉強してパワーを蓄えることによって、蕾を膨らませて年明けに大輪の花を咲かせることに生かしてほしい。そのために菅原道真公の優秀さ、雷を起こす力をいただくのは有りだろう。頑張れ!受験生!
2017/10/07 22:58
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
江戸っ子
昨日「喧嘩」について書いたところ「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉のコメントを複数いただいた。あ、確かに・・・この言葉はいわゆる「江戸っ子」と呼ばれる気質を表しているよなあと納得した。「火事と喧嘩は江戸の華」とは【火消の華やかな働きぶりと、江戸っ子の喧嘩は威勢がよく江戸の見物であるという意味】。時代劇や歴史漫画などには、火事が起こると火消したちが威勢よく活躍している様子が描かれており、天正18年(1590)から明暦3年(1657)までの67年間で、記録に残る大火が 140回。つまり江戸は半年に1回、大火事に見舞われていたらしい。一度火事が起こると密集していた江戸の家屋はすべて木と紙で出来ていたため、あっという間に焼き尽くされてしまったようだ。「火消し」というと水をかけて火を消すというイメージがあるけれど、実は江戸時代は水を使って火を消すのではなく他の建物に火が燃え移る前に燃えている建物を壊すとか。ちなみに「江戸っ子」とは「さっぱりとした気風や、歯切れがよく、銭遣いがきれいで、反面、浅慮で、けんかっぱやいところが特徴」とされ、それを表した有名な言葉がこちら。「江戸っ子は宵越しの銭を持たぬ」で「江戸っ子は収入があったら、それを、その日のうちに使ってしまうもので翌日までいくらか残しておこうなどという浅ましい了見は持ってはいない」という意味で江戸っ子の金払いの良さを表しているが、実はこれには先の「火事が多い」ことが関係しているという説が。つまり、火事が多かったため、稼いだお金が火事で焼ける前に使ってしまおうというわけ。また、銀行がなかった、出稼ぎ労働者が多かったため日払いでお金を稼ぎ、それらが食費などで一日で消えてしまう。また人のためにお金を使った・・・などの諸所の説が複数からまって、いわゆる「江戸っ子」気質と呼ばれるものが形成されたらしい。とはいえ、現在の東京はあらゆる地域から集まってきた人々で構成されており、生まれも育ちも東京という人は一体どれぐらいいるのか?また江戸に限らず、各地域にはそれぞれの風土にあった?気質が少なからず昔から変わらず存在し、それぞれのいい部分は次世代に継承していきたいもの。「江戸っ子」に関しては「人のために気前よくお金を使う」というのは見習いたい部分でもあり気質として継承されるべき部分。
2017/10/06 15:46
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「喧嘩」
「口は災いの元」という諺がある。【不用意な発言は自分自身に災いを招く結果になるから、言葉は十分に慎むべきだという戒め。】で、確かにそうなのだが、かと言って「これぐらい言わなくても伝わっているだろう」という気持ちや「こんなことを言ってはいけないかなあ」という遠慮などによって、意思を伝えなさすぎるのもまた災い…の元。どちらもどっちか?とはいえ、どう考えても「言い過ぎ」のほうがトラブルのもとになることが多いと思う。余計な一言で相手を怒らせてしまうことによって引き起こされるのが「喧嘩(けんか)」。まさに読んで字のごとくで「けんか」の「けん」「か」共に「口」がついている。「宣」「華」単独では「言う、述べる」「華(はな)やか」とそれなりにいい意味だと思うのだが、口がつくことによって「喧」、「嘩」→「やかましい」」という意味になる。しかも単にやかましいだけで済むならばいいのだけど、下手すると相手を傷つけてしまい修復できないということも。よく「喧嘩するほど仲がいい」と言われるけれど、仲の良い間柄とは、相手を褒めることも貶すことも、同じくらいにしているのだろう。つまり当たり前といえば当たり前なのだけど「喧嘩するほど仲が良い」とは、「お互いが遠慮なく喧嘩出来るほどコミュニケーションが取れる仲」という意味。、決して喧嘩ばかりしている関係を意味するものではない。そう考えるとやはり一般的には「口は災いの元」と肝に銘じて「言ってはいけないこと」「言うべきこと」をわきまえて極力「喧嘩」にならないように心がけたいもの。ちなみに自分自身はというと・・・若いころは無意識に「言い過ぎ」てしまったり、逆に相手の心ない言葉に一喜一憂してムッとすることもあり、いわゆる災いばかりだったけれど最近は「言っても分からない」相手には何も言わない。よってあまり喧嘩はしなくなった☞喧嘩できるほどの親しい相手がいない?☞それでもいいやと自己満足・自己完結している(苦笑)。
2017/10/05 15:05
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「捲土重来」
「捲土重来(捲土重来)(意味)一度敗れたものが、勢いを盛り返して再び攻めてくること」という四字熟語がある。言葉や意味はずーっと以前から知っていたけれど、実はこれが中国の大将、項羽に関係する言葉だと知ったのは実はつい最近。※項羽とは古代中国「秦」を倒した二大英雄(項羽と劉邦)のうちの一人。「四面楚歌」の四字熟語の元となった人物として有名。さて「捲土重来」は、項羽が漢の大群に敗れ、自刃して果てた烏江の古戦場を訪れた唐の詩人・杜牧が、「項羽が恥を忍んで江東に逃れて入れば、そこは優秀な青年がそろっていたので再起し、地面を巻き上げるような大勢力で、再び中原(中国の中心地)に返り咲くことが出来たかもしれない」と詠んだ故事からきている。項羽ファンとしては「もし・・・たら」という気持ちになるのはよく分かるのだけど、個人的には人生には「もし・・・たら」はない!項羽ほどの人物であればこその最期の選択をしたと思っている。つまり、もしも再び勢力を盛り返すようなチャンス、そのチャンスに勝算が見込めると判断するならば当然そのように行動していたはず。でも、いよいよ烏江で「運が尽きた」と理解したからこそ最後の酒盛りをし、翌日に大奮闘の末に自刃したと思うのだ。とはいえ、本当のことは当の本人以外には分からないのだけど。最後の最後まで諦めないことは大切、そのことに対して矛盾するかもしれないけれど、ある程度の見極め引き際をも見据えることはよりよく生きるためには必要なことなのでは?とも思う。例えば、自分自身が不治の病に侵されて余命まで宣告されたとする。間違いなく代替医療はないか?となんとか生き延びる選択肢を探し実行するだろう、でも必死であれやこれやとやってみて・・・いよいよ「ああ、もうやるべきことはやった」という時には事情が許すならば緩和ケアに切り替えるような気がするし、それは決して敗北だとは思わない。いかに生き延びるか→いかに人間としての尊厳を持ったまま生ききるかと選択するに違いない。むろんこれらには決まった正解はない、ただ一つ言えることは最期を迎えるときに後悔しない選択をし続けていきたいということ。ふと「捲土重来」という言葉の由来を知って思ったこと。
2017/10/04 14:05
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
国語力
「彼ら(詐欺師 筆者注)はウソばかりを並べ立てるわけではありません。経済の話など、9割以上は本当の話です。しかし、わずかな残りに重大なウソがあります。『なるほど』と聞いているうち、すべてが真実に聞こえるようにするのが彼らのテクニックなのです。」(2017.10.2付け朝日新聞21面 「詐欺の手口とは」より一部抜粋)。これを読んだ瞬間に、え?これって国語における「傍線部とはどういう意味ですか?適する内容のものを一つ選べ」といった選択肢の問題のこと?とびっくりした。選択肢の問題は、以前にも書いたけれど文章全体が間違えているわけではない!下手すると本当に9割は正解だが、一部だけが誤り。(例)「何人かの人々は(正解)」→「すべての人々は(誤り)」という具合なのでぱっと読んだだけでは当然引っかかってしまう。選択肢が4つあったとしたらそのうち2つはすぐに消せるのだけど残り2つで迷ってしまう。こういう時は細かく分けていき一つ一つ検証していく、さらには出題者の意図を読むことが必要となっている。さて、話を戻すと「詐欺師」の上層部って実は「国語力」に長けている、ただしその「国語力」の使い方を間違っているだけで・・・と思わざるを得ない。そういえば警察官OB(暴力団対策の方ではないけれど、地域柄か応援に駆けつけることがしばしばあったらしい)が「裏街道のトップというのはものすごく頭が切れる!実は礼儀も正しいし、話が通じるし、恐ろしく頭がいい。どう見ても皆がイメージするようなヤ〇ザではない。下っ端のチンピラはだめだけど」とよく口に出していたことを思い出す。うーん、いかなる世界でも「国語力」を試される、必要とされるのか?ただし使い方を間違うのはどうか?と考えさせられる。生きていると、一日のうちでも「どちらを食べるか?」といった些細なことに始まり、常に選択をしながら生きている。ぱっと直感で決めるのもありだけど、重要なことや多大な金額がかかわる場合においてはじっくりと検証することが大切でそのためには日ごろから「国語力」を鍛える意識が大切か。
2017/10/03 14:36
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
眉唾もの
建築会社の営業担当のNさまが突然に指を口にもっていったかと思うと次は眉に・・・という動作をなさったのが、かれこれ5年前。これは、お教室の壁紙をカタログを見て選んでいる際に「マイナスイオンを出す壁紙」というコメントに対してお取りになった行動。つまり「マイナスイオン」云々は「眉唾もの」≒、「信用できないもの・こと。疑わしいもの・こと。真偽が定かではないもの・こと。また、それらのような話」とおっしゃったというわけ。とはいえ、エメラルドグリーンという色が気に入ったのでそちらに決めた。その後・・・色はいいのだけど汚れを拭く際に色が落ちやすく(ああ、マイナスイオンがなくなる~)、壁紙を張り替える際には強度を基準に選ぼうとかたくかたく誓っている。さてこの「眉唾もの」の語源は「騙されそうなときは眉に唾をつける」という俗信・迷信が元になっている。狐や狸は人を化かしたり騙したりするので、騙されないように眉に唾をつけると良いという俗信・迷信なのだが、では、なぜそんなことをしたらキツネやタヌキに騙されなくなるか?一つ目は、キツネは人の眉毛の数を数えて化けたり騙したりすると考えられており、眉毛の数を数えられて化かされないように眉毛に唾を塗ることで固めて、キツネに眉毛の数を数えさせないためという説。二つ目は、平安時代の豪傑が山の中で炎をふく大ムカデに出会い、炎に眉毛を焼かれそうになったので眉毛に唾をつけてそれをしのいで大ムカデを倒したという話があり、このような荒唐無稽な話のことを「眉唾もの」「眉唾」というようになったという二つの説のが代表的だとか。また、昨日書いたように古来より唾には魔力を封じる力、霊力があると信じられていたそうで、こういう説が生まれたのだろう。そういえば昔のアニメ「一休さん」はとんちをひねり出す際には必ず唾を頭に付ける動作をしている。これもやはり霊力を期待した動作か?
2017/10/02 02:35
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
唾をつける
「きのふはけふの物語」(昨日は今日の物語)という江戸時代の仮名草子(仮名で書かれた読み物)の中にこんな話がある。「田舎から初めて京に出てきた人がいた。早速宿から見物に出ようと下人を呼び、道に迷わないように何かを目印にするように伝えた。いざ見物を終えて帰ろうとしたところ・・・下人は目印を見つけることが出来ない。なぜならば下人は途中途中の門柱に唾をつけたり、屋根にとまっているカラスを目印にしていたのだ。当然唾は乾く、カラスはどこかに飛んでいってしまったため・・・目印がなくなった」という笑い話。さて、唾と言えば現在でもいくつか慣用句に用いられている。例えばダイレクトに「唾を付ける」という慣用句、意味は「他人にとられないように、また自分のものであることを明確にするために、前もって声をかけたり手段を講じたりする。」となる。こちらの「唾」は消えにくい、なぜなら「唾」というのはあくまでも「たとえ」であり、本来の意味は「声かけ」「手段を講じる」わけだから。消えないどころかとっても有効な方法だと言えるだろう。何事も心の中で思っているだけではなかなか物事は進んでいかない、まずは動いてみる…言い換えると「唾を付ける」ことが大切だと思う。チャンスはどこに転がっているか分からないし、チャンスが来た時に前もって「唾をつけておく」と自分にチャンスが巡ってくることが多いだろう。だって・・・「唾」がついているわけだから他の人はひるむ?!そんなこんなで自分自身、前もって「これぞ」という想う時は遠慮なく「唾」を付けるようにしている。おかげで今も昔も時間差は生じることもあるけれど、「唾」の効力があることもチラホラ。ちなみに古来より、唾には魔力を封じる力、霊力があると信じられていたと言われているそうだ。時には乾いてしまうかもしれないけれど、うまくいけば霊験あらたかになるかもしれないと考えるとワクワクする言葉。
2017/10/01 16:32
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
苦肉の策
「苦肉の策」という言い回しがある。意味は「自分の身を苦しめてまでも敵をあざむくはかりごと。苦しまぎれに考えだした手段。苦肉の謀はかりごと」とあり、「苦肉」の「肉」は「自分の身体」のことで、自分の身を苦しめる・・・苦しまぎれに・・・なんていうと少々物騒な感じがするけれど、個人的には「苦肉の策」をいうのはある意味良策だと思っている。というのが世の中、完璧に美しい手段で物事が進むことの方がむしろ少ないと思うので苦しまぎれだろうが何だろうが「結果オーライ」を目指すことも大切かなあと。先日、小学生の保護者が「漢字テストに出る予定のものに『功名』と言うのがあるんですが、当然子供は意味が分からず漢字だけとりあえず覚えています。辞書で『功名』や『けがの功名』と調べて伝えましたがいまいちのようで・・・」とおっしゃった。親からの説明だからという甘えが子供にはあったのかもしれないけれど、そういう事情を差し引いても確かに「功名」ををうまく説明することは難しい。また、中学生からは「辞書を見ると『あはれ』『をかし』両方ともが『趣がある』になってますがどう違うんですか」という質問も先日受けた。その際に辞書的なまともな表現を一回目はしてみたのだが、当然伝わらない・・・。結局まさに「苦肉の策」で、「功名」については「成功」の「功」と同じ漢字が使われている☞「良い意味」で・・・・と目の前の文具を使いながら具体例を挙げて説明。ついでに「成功」の対義語「失敗」も覚えておくように伝えた(ちょうど生徒は現在、対義語を習っているところなので)。「あはれ」と「をかし」に関しても辞書的な説明の後、英語が得意な生徒だったので「をかし」≒「interesting」という感じ!に始まり現代の言葉で若者言葉を用いながら具体例を挙げたところとりあえず納得してくれたようだ。果たして正しい意味で納得したかどうかの不安がないと言えばうそになるけれど・・・。正攻法で理解できないならば時と場合に応じて「苦肉の策」もありかなあ、と思う今日この頃。
2017/09/30 16:43
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「野次馬」とはどんな馬?
「今日すごかったよね~」と中学生S君が同じ学校のM君に話しかけるとM君も「本当、何事かとびっくりした」と。何があったのかと聞いてみると廊下で男子二人が殴り合いのケンカを始めたらしくM君はなりゆきを見たいがために「やめろよ~」と言いながら(実は本気で止める気は全くなかったらしい…苦笑)見ており、M君はトラブルに巻き込まれたくないと、さっさと教室に入ったとか。S君曰く「僕ね、完璧に野次馬でしたよ~。」と。その瞬間にケンカ云々はどうでもよくなり「野次馬ってどんな馬?」という疑問が頭に浮かび、生徒が帰った後に早速調べてみたところ次のように解説が。【野次馬の語源・由来】 野次馬は、老いた馬を意味する「親父馬(おやじうま)」からという。 老いた馬は仕事に使えず、暴れ馬も仕事に使えないため、「やじ馬」は暴れ馬もさすようになった。 さらに、何も役に立たないという意味が転じ、自分とは関係ないところで無責任に騒ぐ人をさすようになり、物見高く集まる人もさすようになった。(語源由来辞典より)。昔、馬は交通手段、農作業の働き手として重宝され人間にとって身近な存在であったからこそ、良い意味にも悪い意味にも諺や慣用句の中で多く使われる。まあ、確かに「働き手」として馬を見た場合は年老いた馬(親父馬)は全く役に立たないだろうし、場合によっては殺傷処分と言うのが現実だっただろう。が、近年、馬は人を癒す動物として市民権を得つつある。例えば、医療面で犬や猫によるセラピー効果が認められるのは、現在のところ心理面とその波及効果としての生理面に限られている。ところがホースセラピーの場合は、医療、教育、スポーツの3つの要素を併せ持ち、しかも心身両面への直接的セラピー効果が認められると言われている。つまり親父馬になってもセラピー馬としていくらでも大活躍できそう・・・そう考えると「野次馬」という言葉は現在の馬にとって少々可哀想?
2017/09/29 15:53
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です