めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
逆さ言葉2
昨日はネタ切れで苦肉の策で書いた「逆さ言葉」が意外と好評だったので、調子にのって今日は第二弾!昔、「てぶくろ」を逆さに言ってみてと言われ、つぶやくと目の前の相手に6回たたかれたことがある。「てぶくろ」の逆は「ろくぶて」、つまり「6回ぶて」となるから…という遊びで結構流行った。また、古い絵本で「みしのたくかにと」(松岡享子作 大社玲子絵)が今手元にあり、久しぶりに懐かしくなって読み返した。もうお気づきだろうが「みしのたくかにと」は本来は「とにかくたのしみ」なのだが、絵本の中に登場する王子様が「とにかくたのしみ」と書かれている看板を逆に読んでしまい、興味を持ち・・・という話で、それが題名として使われている。興味深いのは題名のみならず、内容も「子供たちはさまざまな生の体験をすることが勉強」だということが楽しく描かれておりお勧め。有名な絵本なので図書館などで手にとってはいかがか?あ、塾生はお教室にあるのでいつでもお声かけいただければお貸しする。ところで、言葉を逆さに読むのみならず読み方の順番を変えるということが昭和、平成では流行ったなあと思う。例えば「うまい(美味しい)」を「まうい」という表現したタレントさんがいたなあと思い出した。また昨日T先生からいた頂いたコメントに「ジャズの世界では昔、ジャズにハマっていた時、山下洋輔・坂田明・・・などが、『モダン・ジャズ』のことを『ダンモ・ズ~ジャ』とか『テナーサックス』のことを『ナテ』などと言っていたことを思い出しました。」とのことで「へ~~っ、粋だなあ」と興味深く読ませていただいた。いただいたコメント返しにも書いたのだけれど東野圭吾さんの著書「ナミヤ雑貨店の奇蹟」(現在映画化され、全国で放映中)は「悩み」→「ナヤミ」→「ナミヤ」と並べ替えて題名にしているに違いない!と初版発行と同時にこの本を読み、その時から今までずーっと勝手に思い込んでいる。こちらの映画はまだ見ていないけれど、本は本当に涙なしでは読めない素晴らしい作品。っと、気づくとなんだか本の紹介になってしまったようだけれど、言葉を逆さ読みしたり並べ替えて遊んでみると脳のトレーニングになるかも。
2017/10/18 15:39
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逆さ言葉
今日は久しぶりにネタ切れしてしまい(つまりは頭がネタ状態だった)、うんうんと悩んでいたところそれを逆手にとって「ネタ」について書いてみることにする。すしネタ、ネタ切れ、ネタを仕入れる・・・などなど何気に使っており意味は何となく「材料」といった感じで分かるけれど、漢字は?「ネタ」の語源は?と早速調べてみると次のようなことが分かった。【元々は「種(タネ)」と呼ばれていたものを逆さまにしたものである。種(タネ)→ネタ、タネとは植物のの種子を原義として、物事の一番大事なものや中核に存在するものを表す単語である。(例:タネを隠す。悩みのタネ。ご飯のタネにする。)そこから江戸時代あたりに、「寿司ノタネ」のことを「寿司のネタ」などと逆さまに呼び始め定着した形になる。江戸時代は一部で逆さま言葉が流行っていた。例を上げれば新しい(あらたしい)を新しい(あたらしい)などと呼び現在に定着したものもある。基本的にはネタはタネと同じく「物事の一番大事な部分」の意味で使われている。「手品のネタ」「新聞のネタ」「漫才のネタ」など。】(ニコニコ大百科 大百科ニュース社より引用)。つまりは、「ネタ」の語源は「タネ」を逆さまに読んだだけで意味はさほど変わらないことが判明。そういえば「新しい」=「あたらしい」「心新たに」=「こころあらたに」と何の疑問も抱かずに読んでいたけれどなるほど、「あらた」の「ら」と「た」が逆だと新発見できてなんだかワクワクしている。そういえば百人一首を題材に扱った漫画「ちはやふる」の登場人物の名前は「新」=「あらた」だなあと妙に納得。さて、気をよくして他にも逆さ言葉がないかどうかを調べてみたところ「ガサ入れ」(調査が入ること)は元々は「探す(サガす)」でそれが逆さ読みされて「ガサ」になったとか。「ガサ入れ」は、ある意味隠語として使われているけれど・・・。何気ない言葉、隠語の語源を調べると由来、事実、さらにそこから派生して別の興味深いことが分かり面白いなあと感じる。勉強≒大変というイメージが強く、実際にそうだと思うけれど大変さと同じぐらい「新たな(あらたな)発見」「新しい(あたらしい)知識」を身に着ける楽しみがあると言えるだろう。
2017/10/17 17:33
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自分色を入れる
昨日は「自分らしい文章」というタイトルで書いたけれど、誤解しないでほしいのが人様の意見を参考にしたり、引用するのが悪いと言っているわけではない。人様の意見に感動したり、同意したらそれを書けばいいと思うし、それが経験とともに自分の中に浸透し「自分の考え」になると思う。そのことをとても分かりやすく、美しい表現でW先生が昨日のブログにコメント下さったのでぜひ読んでほしい。さて、そもそもが「自分の考え」だと思っていることのおそらく90パーセント以上が他者からの影響を受けたもの、下手するとコピーされたものだからで、それは当然だと思う。「学ぶ」の語源は「真似ぶ」、まずは「真似」することが学んでいくうえで一番大切なことだから。ただ、ネットなどで調べた情報を自分の中で解釈、咀嚼、納得しないうちに適当に複数個集めて切り貼りして、いかにも「自分の考え」として表現することはどうなのか?と思うだけである。昨日の記事をリブログして下さったH先生の記事に、たまたま「キャベツ」について文章を書いた生徒さんのことが取り上げられており、思わずそこから「キャベツ人形」なるものを思い出した・・・。キャベツ人形とは1983年ごろにアメリカで流行したもの。顔や髪形、肌や目の色、服装などの違いで6000以上の種類があるとされている。同じ人形は基本的にひとつとしてなく、1年後にはバースディ・カードが届くという仕掛けでヒットした。当時の価格は6,500円。過去30年で1億体を販売した。正直言ってキャベツ人形を見たとき「一体一体違っているとはいうけれどよく似てる」と思った。それはある意味当たり前で基本的な骨組み(型紙)は同じで、パーツや髪形や色をそれぞれ変えているだけだから。つまり、一体一体別物とは言いながらもキャベツ人形同士は似ており、例えばキャベツ人形とリカちゃん人形ほどの違いはない。話を戻すと文章を書くときに、知識や経験が浅い若者にとって「自分の文章」はかなりの難度。その場合は人様の意見を軸にしつつも自分色を入れることを意識することが大切だということ。
2017/10/16 16:32
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自分らしい小論文
数年以上前の話。知人の息子さんが当時高校3年生、某大学医学部の看護学部を志望しており推薦入試を受けることになった。前もって「今後の医療の在り方、問題点」といったテーマで小論文を提出することになっており、勉強熱心な彼は学校の先生からお勧めの本を紹介しもらい、それらを複数冊読んで勉強し必死で小論文をまとめた。そして何度も学校の先生に添削してもらい、無事に完成していよいよ明日願書とともに提出という段階になって母親に(私の知人)にその小論文を見せたところ・・・。私の知人がダメ出しをして結局親子で徹夜で小論文を書き直し提出、無事に合格した。なぜ、素人にもかかわらず知人が息子に小論文にダメ出しをしたか?「あまりにもとってつけたような立派な内容だったから」だとか。つまり、あらゆる専門書の一部分を切り貼りしてそれなりの体裁を整えており、だからこそ内容が薄っぺらく感じたらしい。本人らしさが全く感じられず、専門家から見ると「若造が、分かりもしないのに偉そうに語っている」と思う!と、「あなたにしか書けない本音で」と強調して書き直しをしたらしい。書き直しをせずに提出していたとしても合格していたかもしれないし、元の原稿を見せてもらったわけではないので何とも言えない。ただ、そういったエピソードをふと思い出した。なぜならまさに今、小論文を書こうと頑張っている高校生に対してどうアドヴァイスするか思案しているから。生徒は公的機関が募集している海外への短期留学の資格を得るために小論文作成に励んでいる。小論文なので相手を説得させるべき論理的な文章を書くことは最低条件だが、審査員に気に入ってもらうようにと、いわゆる一般論的な「きれいごと」ばかりを書いたとしても審査員の心に響かないのでは?と個人的思っている。生徒は学校の先生にも下書きの段階で見せたところ、「ある内容」について残すか削るかの選択に迫られたらしい。確かに「ある内容」はテーマから若干ズレるかなあとは感じており、今後それをどんなふうにテーマと結びつけるかと考えていたところだった。結局、生徒は「ある内容」は残す選択をしたようなので、なんとかテーマと結びつけるべき文章に、と添削した。まだ締め切りまで日があるのでさらに書き直し、添削して「本人らしい小論文」を目指して共にファイト。
2017/10/15 15:53
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「追究」「追求」「追及」
人間は思い込むという性質があり、きちんと見ているつもりでも見ていないことがしばしば。というわけで生徒たちに漢字ワークの宿題を出した時は各自で演習・自己採点後に必ずチェックするようにしている。すると必ずと言っていいほど造語が見つかる・・・。こんな漢字は世の中にないよ~と思わず笑いがこみあげてくることが日常茶飯事である。造語のみならず写し間違えていることもあり、熟語の意味を考えれば分かるでしょう~と言いたくもなる。そもそもが写し間違いに気付かない≒何も考えずに答え合わせをしている証拠なわけであって・・・。とはいえ、厄介なのが同音異義語!確かに意味を考えて突き詰めていくと正しい熟語に行きつくし覚えることが出来るけれど、間違った組み合わせでも微妙に意味が通じてしまうこともあるから。例えば「ついきゅう」、「追求」:手に入れようとしてねばり強く追い求めること。「追及」:責任・欠点などをどこまでも追いつめること。「追究」:(学問的に)不確かなことや不明なことをどこまでも探究すること。深く考えきわめること。①真理をツイキュウする②理想をツイキュウする③余罪をツイキュウする、答えは①真理を追究する②理想を追求する③余罪を追及する、となる。が、それを写し間違えて「余罪を追究する」と書いてしまった某生徒。思わず「犯した罪について研究するの?罪とは何ぞや?罪にはさまざまな種類があって・・・・。自分の罪は○○で□□と、するわけ?少し考えればおかしいと分かるよね?」と突っ込むと大笑いされた。反省してくれることを期待していたのだけど彼の脳内では「罪とはなんぞや?自分の罪は・・・自分は罪深い」とグルグルし始めておりすっかり漢字の熟語を覚えるという目的から逸脱して哲学的思考への移行してしまった。はーっ。漢字は奥が深く、楽しいけれど難しい・・・。だから常に勉強あるのみ。
2017/10/14 16:11
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ブログ紹介
今日、読書感想文の審査についての会議のお知らせなるものが届いた。年に一度の楽しみでもあるのだけど、毎年感じるのが「感想文」と言いながらも暗黙の了解で「過激な本音」を書いている人がほとんどいないということ。本来ならば誰かを傷つけるような表現でなければ本音を書いてもいいのだけれど、そうなると入賞しづらい、学校の先生のフィルターというものを通す場合はその段階で引っかかる。それゆえにいわゆる「きれいごと」を書いている作品がどうしても多くなる。あるいは最初から「書きやすい」本を選ぶ傾向が。「書きやすい」本を選ぶというのは厄介な読書感想文という課題をこなすうえでは一つの知恵だと言えるから大いに推奨したいが。さて、何週間か前に批判を覚悟で夏目漱石の「こころ」は高校時代も今もあまり理解できない…的なことをブログで書いた。「名作」と言われるものだからといってすべての人が理解できるとは限らないし、理解する必要もないと思っている。ちなみに中学生の教科書に掲載されている太宰治の「走れメロス」についても、「ここだけの話」として生徒とともに「いきなり怒り出すメロスって・・・・」的なことを話している。とはいえ、さすがに生徒たちには学校に提出する感想文やレポート類には出題者の意図を読むように伝えている・・・。ところで高校時代の国語の先生は「国語を勉強することは批評精神を学ぶことだ」とおっしゃっていた。ここで気を付けなくてはいけないのが「批判」ではなく「批評」ということ。つまり冷静な視線で物事を判断するということが大切だということを「国語」という教科を指導することによって若者たちに教えて下さった素晴らしい先生だった。そんなことを思い出させてくれるような興味深いブログ記事を今日は紹介させていただく。とっても勉強になると同時に溜飲が下がるような内容。
『まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育』有元秀文著 - 国語教育界の大御所のお言葉
2017/10/13 15:51
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目に見えない力、想い
【御堂関白の御犬清明等奇特の事「宇治拾遺物語」】の前半部分が先日の北海道の学力テストに出題された。御堂関白とは藤原道長のことで、道長が可愛がっていた犬とともにいつものように散歩に出かけ、帰宅したところ・・・。門に入ろうとしたときに犬が道長が門に入ることを拒否するような態度をとる。不審に思った道長は陰陽師である安倍晴明をすぐさま呼んで占わせてみると道長を呪う物が門のところに埋められているという結果が出、実際に地面を掘ってみると案の定、呪具が出てきたという話。つまり愛犬によって助けられたというくだりなのだが・・・。平安時代の思想や風習などを知っていれば簡単に理解できるのだけど科学が発達している現代に生きる若者にとってはいまいちピンとこなかったようだ。これが史実かどうかは別として、平安時代は言霊をはじめとした「目に見えない力」のことを重んじる傾向が強かったということを知っているかどうかがキーポイントとなった。そういえば、去年も「ネズミの嫁入り」の古文問題に対して「風や太陽がしゃべるのはおかしい」と思い込んで、主語を選ぶ問題ではことごとく「ネズミ」(☜ネズミも本当はしゃべらないけれど、一応動きまわることが出来る動物なので違和感はなかったらしい。)を選んだ生徒がいた。今年もアニミズム、陰陽師、加持祈祷等についても伝えておかなくては!とワクワクしている。ご周知のとおり自分自身のハンドルネームに「陰陽師」とつけるぐらいなので「目に見えない力」(サムシンググレート)なるものには否定はしないし、否定するどこか敬意を払っている。実際に仕事上で長年悩んでいた案件が急転直下の兆し・・・。詳しい内容はここでは書けないけれど、一つ言えることは「自分の念」という目に見えない力が働いたとしか思えないような・・・・。だからこそ基本的に人のことを悪く思ったり言ったりはしないでおこうと決めているしそのように実行しているつもり。「念」「想い」には力があると感じるから。
2017/10/12 14:04
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「牛より鶏」≠「鶏口となるとも・・・」
「『牛より鶏』が世界的傾向」というタイトルが飛び込んできた!(2017.10.11 朝日新聞より抜粋)!思わず「おおっ、そうなんだ~~~。世界的に『鶏口となるとも牛後となるなかれ』とばかりに起業独立する人が増えてるのかなあ?でも人にはそれぞれ資質や役割があるから鶏口(組織のトップ)がいいとも牛後(大きな集団の一員)のどちらが正しいとかはないけれどなああ。『寄らば大樹の陰』っていうし。」と思いながら記事を読むと・・・・。実は「肉」の話だった(汗)。一言で言うと「牛肉よりも鶏肉が食べられることが、世界的傾向になっている。」という記事だった「なーんだ」と一瞬思わなくもなかったけれど、食肉考としては面白い記事であった。実はこういう勘違い、何でもかんでも国語的に結び付ける傾向が強い自分自身に少々あきれるのだが敢えて言い訳をさせてもらうと、この記事の右に「ことばの広場」というコーナーがあったため余計に「日本語に関する記事」だと思い込んだというわけ。さて、折角なので以前にも書いた「鶏口となるとも牛後となるなかれ」について考えてみようっと。【意味 大きな集団の中で下にいるよりも、小さな集団でも一番になるほうがいい。鶏のくちばしとなっても、牛の尻になるべきではないという意味。中国・戦国時代に蘇秦という人が、韓・魏・楚・斉・燕・趙の六国に対し、強大な秦に従うよりも、一国の王という状態を維持しながら連合して対抗したほうがいいと説いたときに引用したことわざ。】先にも書いたけれど、鶏口がいいのか牛後がいいのかは人それぞれ。では、自分はというと・・・鶏口どころかまだまだ「ひよこ」状態。「早く鶏になりたーい」と思っている。鶏になる前に牛のしっぽに戻るかは今後の自分の努力と運次第?!大学卒業後は楽しく牛のしっぽとして充実していたけれど、いかんせん、ブログを読んでいただくとお分かりのように超個性的な性格ゆえ、自分は鶏口のほうが向いてるかもと思い込んで日々努力中。さて、数年後には鶏になっているか牛後になっているか?このブログが続いているならば鶏口・・・・応援のほどよろしくお願いしたい。
2017/10/11 15:25
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「臥薪嘗胆」「明鏡止水」
いつもお邪魔させてもらっているブロガーtami1977さん、今日のブログ記事のタイトルが「明鏡止水」「臥薪嘗胆」とあり、思わず目が釘付けに。なぜなら自分の中で「明鏡止水」はたとえて言うならば「さわやかな笑顔」、「臥薪嘗胆」が「苦労→少々くらい表情」というイメージ、つまりある意味対極のイメージの言葉が一日の言葉として仲良く並んでいたから。「明鏡止水」とは【邪念がなく、澄み切って落ち着いた心の形容。「明鏡」は一点の曇りもない鏡のこと。「止水」は止まって、静かにたたえている水のこと】、「臥薪嘗胆」とは【将来の成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て苦い肝をなめる意から。「臥」はふし寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦いきも。もとは敗戦の恥をすすぎ仇(あだ)を討とうと、労苦を自身に課して苦労を重ねること】。凡人の自分にとっては「苦労」=苦虫をつぶす→決して、邪念がなくて落ち着いた・・・とはいかず、ついつい表情や態度に「苦労しています!」と出てしまいそう。でも苦労しない人生、しない人なんて存在しない、その苦労に対していかに落ち着いて対処して乗り越えるかが大切、また「将来の成功」という目的のためには邪念は不要。邪念がなく落ち着いた気持ち、まさに「明鏡止水」の心境で苦労に耐えるのが「臥薪嘗胆」だろう。想像するだけで「う、かっこよすぎ…自分には無理」となりそうだけれど。ある意味「臥薪嘗胆」の後に「明鏡止水」の心境になるとも言えるか。どちらにしても「ジタバタ」と慌ててばかりでは成功するものもしない、水は濁る一方。じっとじっと落ち着いて耐えることが必要か。「臥薪嘗胆」というマイナスのイメージの言葉と「明鏡止水」というプラスのイメージの言葉を意識しながら一日を過ごそういうtami1977さんの生き方、共感すると同時に見習おう!とさわやかな気分になった。感謝!
2017/10/10 19:31
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文学が寄り添ってくれる
なぜ文学は廃れないか?なぜ読書をするのか?この問いに関して明確な答えはなく、人それぞれ意見が違う。一般的には①教養を身につけることが出来る②他者の人生を疑似体験することが出来る③②をすることによって想像力や道徳観を学ぶ・・・この3点が答えとなるのだろうけれど、それでもいまいちピンとこなかった。昨日、ようやく「なるほど~」と胸にストンと落ちる表現を見つけて、とってもとっても嬉しい気分!それは次の言葉。「駄目な人、弱い人、懲りない人。そんな人を切り捨てるのは、たやすいことです。でも、あなたもうすうす気づいているように、文学はそういう人たちに寄り添うためにある。」(2017.10.8朝日新聞 斎藤環氏が相談者への回答として寄せた文より抜粋)。なるほどなああ~とようやくようやく長年胸につかえていたものが取れたという感じ。斎藤氏は精神科医でもあり批評家でもあり、分かりやすく優しく、まさに目の前の読者に寄り添ったような文章を書いていらっしゃることにも感動した。さて、人間は誰もが弱さを持ち合わせている、外部から見ると強く見えるタイプでも必ず内側には弱さ、駄目な部分はある。文学はその弱さなどに寄り添ってくれるというのだ。確かに文学は静かにそっとそばにいてくれ、文字や内容が内面を癒してくれる。また、駄目な人、弱い人、懲りない人をさっさと切ること自体は簡単でも(メール一本で「これからは連絡しないでください」で縁を切ろうと思えば切れるから)、切った後に切った側になんだかモヤモヤしたものが残るもの。それを分かっているからこそスパッと切れないとウジウジと悩むのが人間で、そんな時にもやはり文学はそっとそっと寄り添ってくれる・・・。自分の弱さに気が付いたときに、何気に開いた一ページに今の自分に必要なことが書かれていたりもする。いつもなら全く気にも留めずに読み飛ばすような言葉だったとしても、時と場合によって必要に応じてちゃーんと文学が教えてくれるような気がする。先日ノーベル文学賞が発表され、り翻訳本がすでに存在するという恵まれた状況、読書の秋を満喫しようっと。
2017/10/09 16:00
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