めむろ国語専門塾
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小さな国語塾のつぶやき
声紋診断
「塾長もすなる声紋診断といふものを、陰陽師もしてみむとて、するなり。門出 十二月二十六日
それの年の十二月(しはす)の二十日あまり六日の日の酉の刻に門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。」【現代語訳 (世間の)塾長もする声紋診断と言うものを、陰陽師もしてみようと思ってしたのである。ある年の12月26日、午後 7時~9時に出発する。その(声紋診断の)次第をほんの少し物に書きつける。(紀貫之の「土佐日記」風にして遊んでみた。)】ちょくちょくのぞかせてもらっている同業者複数のブログから「声紋診断」と言うものを最近知った。これは自分の脳の特性を知ることによって自分の適性や勉強法、生き方を工夫するのに役立てようというもの。下の画像はネットからお借りしたけれど(実際の画像は後日に送られてくる)、6秒間自分の名前を好きな速さで言うだけで自分のタイプを分析できるとか。画像に映っている3つの輪は潜在意識・前意識・顕在意識(内側から)に分けられており、色や部分によって①視覚タイプ②聴覚タイプ③感覚タイプ、どんな傾向にあるのか解る。さて、陰陽師の結果を一言でいうとズバリ「視覚タイプ」で直観、インスピレーションの部分が強かった。やはりと言うべきか・・・。自覚はあったのだけどこうして科学的にデータとして出てくると面白い。また、ブログでは散々過激なことを書いているけれど実生活では自分で言うのもなんだが、あまり過激なことは言わない。そのことも完璧にデータに出ており興味深い。自分がお世話になった専門家は脳についての最新の学説や今後、自分の能力をどのように生かせばいいかなどを分かりやすく説明して下さり本当に勉強になった。何事も「特性」「性質」を知ることによって対策を立てたり、それらをうまく生かすことが出来、さらには弱点を補強することも可能で声紋診断は自己を知るための一つのツールだと言える。年末に出来心を起こして遊んでみたことを書いてみた次第である。
2017/12/27 03:00
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「目的」と「手段」
「手段」の対義語は「目的」なのだけれど、これらはイマイチぴんと来ない言葉で、よくありがちなのが「手段」と「目的」がいつの間にか入れ替わってしまうこと。例えば「幸せ」になるために「お金が欲しい」(目的)→「お金を手に入れるために働く」(手段)だが、平日は残業続きで土日も休日出勤・・・お金は手に入ったけれど全然幸せではないと言った具合にいつの間にか「手段」と「目的」が曖昧になってたり入れ替わってたりする。別の例としては「ダイエット」。きれいになるため(目的)にダイエット(手段)をするはずが気づいたらダイエット・痩せることが目的になってそれに躍起になっているという(まぁそれが続かない原因でもあるのだが…)。結局は「手段」=「ツール」にしかすぎず、最終的な「目的」のためには「手段」をいい意味で選ぶ必要があると思う。「目的のためには手段を選ばない」なんていうと少々物騒なイメージ、あくどいイメージがあるけれど「手段を選ばない」という表現を使うから良くないのであって「手段を選ぶ」と言い換えるとピッタリかなあと思う。つまりは目的を達するためには最善の手段を選ぶことが必要か。ところで友人のブログ佳代子で興味深い記事を見つけた。「先日、個展の打ち合わせでカフェのマスターとお話し。今回私はフライヤーは作りませんと告げました。利益が目的ではないしカフェにきたお客様にぶらっと見てもらえたらいいと。でもこれは自信の無さのあらわれだった、自分の持つ感覚や感性の過小評価。言ってから気づく、自分にも場を貸して下さるギャラリーに対しても失礼だ…。」(12月26日付ブログより引用)。そうそう、まさにこれぞ自分自身が日頃から感じており、そして言いたかったこと!なのだ。例えば「皆に喜んでもらうことが目的ですから・・・・」と言ってあいまいな立場で物事を行うことは意外と双方にとって窮屈だと感じている(むろんケースバイケースだけれど)。だから自分自身は相手と友人だろうが、付き合いが長かろうが「これはこれ。それはそれ」ときっちりと線引きしており「なあなあ」は避けるようにしている。具体的には相手が善意で大幅値引きをしてくれようとしても「私の価値はたったのこれだけ、と宣言するようなもので逆に失礼。私はあなたの能力を高く評価しているし価値を見出しているからこそ出すべきものは出したい。」というスタンスをとっているつもり。逆もしかりで自分自身もそのあたりの線引きをある程度は守ろう(例外はあるにしても)と思っている。
2017/12/26 16:52
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「粒粒辛苦」→「一粒万倍」に!
粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)という四字熟語がある。これを生徒たちに「なんて読むと思う?」聞くとみな一斉に「つぶつぶしんく」!と元気よく答えてくれたけれど・・・正しくは「りゅうりゅうしんく」と読み、意味は「穀物の一粒一粒は農民の苦労と努力の結果実ったものであること。転じて、細かな努力を積み重ねて大変な苦労をすること。」となる。「粒」=「つぶ」と読むのはもちろん正しく、なかなか他の読み方を思いつかないようだったので「粒子は何て読む?」と聞くと「りゅうし」と言う答えが。さすがに「つぶこ」は変だし、理科で見聞きしたことがあるので「りゅうし」とすぐに読めたというわけ。さて、こういった漢字の読みはもちろんのこと何事も結局は細かな努力を重ねないことには、上達や成長はできない。そんなことは言われなくても誰しもが分かっているけれど、少しでも楽に…と思うのが人間の性。ではなぜ細かな努力が意外と続かないか?結果がいつ出るかが分からない、結果を実感できないうちに不安になるからだろう。☜自分自身がまさにそう!ただ、「一粒万倍日」(いちりゅうまんばいび、もしくは、いちりゅうまんばいにち)と言う言葉もある。これは吉日として有名な「大安(たいあん)」にも並ぶ大変縁起の良い吉日とされている。「一粒万倍」とは、たった一粒の籾(もみ)が万倍にも実り素晴らしい稲穂になることを表している。"手元にあるわずかな物で始めた事が何倍にも膨らむ"とされ、新しい物事をスタートするにはもってこいの日。ちなみに今月は明日とあさって(26日、27日)が一粒万倍日にあたる。気は持ちよう?!縁起を担いで明日から苦手科目克服、あるいは国語の難解な問題に果敢に挑戦する、大人の方は何か新しい決意を持つなどしてみてはいかがだろうか?粒粒辛苦を一粒万倍に出来るといいなああ~と思いながらこのブログを書いている。さて、自分?!もちろん明日、あさっては新たなことに挑戦するべくして計画中。単に粒粒辛苦に終わらせず一粒万倍に!
2017/12/25 17:26
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論説文の選択肢
今、手元に「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社 神田桂一、菊池良著2017.6.21初版発行)がある。先日、公言していたように張り切って本を買ったもののなかなか手に取るチャンスがなく積読であった。ようやくようやくパラパラと好きな作家(ページから)読んでいる。宝島社の回し者ではないけれど、この本「面白い」!!!厳密にいうと作者が文豪たちの文章の癖を本当に良く把握し、模写しているのが素晴らしい。個人的にはP96の「エヌ氏の発明」(星新一)に思わず笑ってしまった。星新一の本を何冊も読んでいるからこそ面白さが分かる。つまり、人それぞれ文章の癖がありそれらの癖を知っていたり、好みに合っていると読みやすい。逆の場合だと少々厳しい・・・。では、試験などで「苦手な」「好みではない」文章が出たらどうするか?ズバリ!内容を理解しようとするのではなく、キーワードやキーセンテンスを探すことに意識を向ける!と割り切った方がやりやすい(少なくとも論説の場合)。本文に合ってるものを選ぶ選択肢ではほぼ間違いなくキーワードがちりばめられているから。読みにくい文章を何回も何回も読んだところで理解できるわけではなく、しかも限られた時間内に解かなくてはならないからこそ「論説文」=「型にはまっていることが多い」「キーワードがある」ということを意識すると瞬間に答えが出る。かくいう自分自身も問題を解くときに楽しんで読むときと機械的に読むときとがあり、どちらにしても「答えを見つける」ことに意識を向けている。それゆえ、いきなりの初見の問題を質問されても瞬間に答えが出せる。☜生徒からは「先生って読んでないですね。」と嫌味を言われるけれど。授業では正答以外の選択肢のどの部分が違うかを解説するが試験中はとにもかくも自信があろうがなかろうが解答しなくてはならない。受験生泣かせと思われる作家、評論家が少なからず存在しテキストやテストを見た瞬間に「ああ、これは○○には厳しいだろうなあ。」などと想像がつき、案の定というべきか先日「論説文」の本文に合うものを一つ選ぶという問で苦戦している生徒たち。キーワードをチェック(3つあった)し、それらをすべて含む選択肢が答えになることを示すと目が点になっていた。真面目なまっすぐな態度は素晴らしいけれど、正解を出すためには少々の邪道?!テクニックも必要か。
2017/12/24 18:05
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「第一印象」を払拭するためには・・・
「第一印象」って大切で、意外と当たっていると思う。人生経験が多いほど集約された経験や勘から物事を判断できるから。とはいえブロ友である、ひさぺー 先生がおっしゃっているように「第一印象」、特にそれがいイマイチの印象の場合には「第一印象」にとらわれてしまうのはもったいない(12月22日付記事より)。ましてや経験が少ない若いうちに「国語≒難しい」「勉強≒楽しくない」という印象を持ってしまうのはもったいないの極致だと言える。とはいえ、気持ちは分かる・・・国語の場合は見た目と言うよりも「文章を読む」作業が必要なので面倒くさい!逆にいうとだからこそ誤解が生じやすいのかもしれない。ある意味、自分自身はそういった文章の持つ特徴を逆手に取っているけれど。つまり、実際に会った時の印象とは全く別の印象を与えるようにと意識して文章(このブログ)を書いている。さて話を戻して先日、小学生の保護者様が「本人は最初から難しいと思い込んで、別の塾の冬期講習会のテキストの説明を読もうとしません。それゆえ宿題が進みません。」とおっしゃった。どれどれ?と思い別の塾の冬期講習会のテキストを見せてもらい、思わず納得。グダグダと難しい説明が延々と続いているのを見るとそりゃあヤル気が失せるだろうと言いたい。むろん、とっても「いいこと」「有益」なことが書かれているのだけど子供にとってはパッと見た瞬間に「ヤル気」が失せるようなレイアウト。国語が大好きな子にとってはそんなレイアウトなどは関係ないと思うけれど・・・。保護者様には①ヤル気が起きないのは当然であること②「第一印象」でヤル気をなくことは小学生では「あるある」こと③悪い「第一印象」を払拭するためにお教室で行っている工夫をいくつか紹介した。さて、③について少しだけ紹介しておこう。小学5年生のクラスで「詩」について学習する際に、某生徒が以前に「学校で宮沢賢治の作品をやったよ。僕は宮沢賢治は好きだよ。」と何気に言っていたので「宮沢賢治」の絵本を準備した。そして具体的に絵本のページを開き「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・・」「東ニ病気ノコドモアレバ・・・西ニツカレタ母アレバ・・・」が「対句」になっていることを本人に見つけさせるといった具合。まさに「宮沢賢治ガスキナラバ 行ッテサクヒンヲサガシテヤリ」状態。大人だと柔軟にイマイチな「第一印象」を冷静に判断して「良い」方に変えることが出来るけれど子供の場合はなかなか難しい。だからイマイチな「第一印象」をいかにして「良い印象」にするかを工夫するのが楽しい仕事の一つ。
2017/12/23 21:36
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「努力できる環境」
「行き詰まる事は誰にも確かにあるのですが、止まってしまったらそれまでの努力が台無しです。とにかくなんとかまとめましょう。なんとか形にしましょう」・・・。これはブロ友である「花ゆき」先生の言葉。本当にその通りだと思う。最近「努力で運を引き寄せる」的な考え方が広く語られるけれど果たして本当か?と言われると何とも言えない。なぜなら幸か不幸か?持って生まれた才能や、環境がそれぞれ違い、客観的に容姿や経済的に恵まれているタイプは一言で言うと「運がいい」わけであって、それは決して努力で引き寄せたわけでも何でもないから。また、宝くじで大金をゲットするのもある意味偶然であって努力したから当たったわけでもない。努力して真面目に生きてきた人でも不慮の事故や不幸になることもある。つまり「努力したから必ず運が良くなる」と言うわけではない☞それゆえ世の中は理不尽だ~と言いたくなることも。でもいわゆる「運がいい状態」「運がいい人」とはほぼ間違いなく「努力を続けた人」だと思う。言い換えると「努力を辞めなかった人」。花ゆき先生も書かれているけれど努力を最後まで(?)続けたときに「見えてくる」ものがあるだろう。例えば音楽活動で身を立てようと必死で頑張って努力して努力して、これ以上無理という時に「ああ、自分には音楽はむいていなかったんだ。」と納得がいき、別の道を歩む決心がつくのかもしれない。以前に、某御方が「成功した人はみな例外なく『運が良かったんです』と言う。でも実はそこに至るまでには恐ろしいぐらいの努力があったんだよね。」とおっしゃった。その「努力」というものを本人が自覚するかしないかは別問題として。何が言いたいか?「努力しても報われないこともある。でも努力をやめてしまったら完全にそこでストップしてしまう。だから報われるかどうかは分からないけれど、とりあえず努力を続けることが大切」と。努力をしたくてもできない人も世の中には沢山いる。外国では勉強したくても環境が整っていなかったり、努力したくてもどうしても体が言うことを効かない人が世の中には沢山いる。そんなことを考えていると少なくとも通塾出来る生徒さんたちは「努力できる環境」にいるわけで恵まれている証拠だと感じる。むろん努力するかしないかは本人次第だけど折角「努力できる環境」にあるのだから努力して悔いのないように!と言いたい。自戒を込めて。
2017/12/22 03:04
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「講習会」≒「時間を買う」
少々ピークは過ぎたとはいえ、12月になると「冬期講習を受けるべきか、否か」と悩むご家庭が多くなり、塾側としては「受けるべきだ」という勧誘、意見が多くなる。個人的には事情が許すならば「受けるべき」派だ。そりゃあ、塾関係者だからそういうのは当然だと思わるかもしれないが実は国語塾は・国語のみしか教えない・ほとんどの生徒が5科目指導の塾とダブルスクール、という事情から国語塾単独での冬期講習は実施していない。つまり冷静な立場から「冬期講習会は行くべきだ」というスタンス。特に受験生、一般入試、学科試験ありの特別推薦を考えているならば尚更。なぜならば受験生は本番までの時間が限られているため、いかに効率よく合格点を取るための実力を身につけるかがポイントとなるから。先にも書いたがあくまでも事情が許すならばという条件が付くけれど。例えば、①とっても勉強が得意で人に教えてもらわずして自力でする方が効率がいい②経済的事情が許さない③講習会は担当教師が変わる可能性があり、その担当講師には指導力がないため行くだけ時間の無駄、といった3点ほどの事情ならば自宅学習した方がベスト。さて、昨日の午前中に高等看護学校の受験を1月に控えてらっしゃる社会人の方の指導をした。社会人経験がおありで、貪欲に知識を吸収して絶対に合格したいという熱意があり、指導したことをどんどんと吸収していく様子が見られ、思いきり指導に熱が入った。と同時に「よくぞ来て下さったことだ・・・。この入試問題の傾向を一人で把握して勉強しようとしたら一体何時間、何十時間かかるだろう?お金はかかっても人の指導を受けるならば2,3時間でクリアできる・・・。」と思った。手前みそになるけれど、プロから見ると過去問を複数見た瞬間に傾向がつかめて対策を立てることが出来る。また、短い作文に関しても指導が入るか入らないかで仕上がりが大きく変わる(小論文もしかり)。文章系は決まった答えがないため、自力で・・・となるとどうしても「独りよがり」になってしまいがち。来年早々には大学入試の小論文対策指導の予定もあり、彼らの将来がかかっていると言っても過言ではない入試に対しての応援が出来ることが有難い。とにもかくも「時間を買う」という意味でも、もしも「講習会に参加するかどうか」と迷うならば「参加する」方がいいのでは?
2017/12/21 17:33
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つながり≒クリスマスプレゼント
今日の午後に車中でNHKラジオを流していると・・・「つながり」というテーマについて視聴者からの意見を公募し紹介していた。「つながり」と一言で言っても人それぞれ感じ方やとらえ方が違い、十人いれば十通りの「つながり」があるだろう。では、自分の中での「つながり」は?!数多くあるけれど、その中の一つは「つながり」≒「連鎖」≒「リレー」≒「パス」というイメージだ。このような図式が成り立つ理由として、先日興味深い文章を読んだことが挙げられる。一部ここで紹介する。「パスを受け取ったら、次のプレイヤーにパスを回す。自分のところにとどめてもいけないし、パスを送ってくれたプレイヤーにそのまま戻してもいけない。次のプレイヤーにパスしなければならない。クリスマスプレゼントも同じです。親から受け取った贈り物を返す相手は自分の子どもです。」(「困難な成熟」内田樹著 2015.9.11第一刷発行P225より引用 ※内田樹氏は思想・武道家、神戸女学院大学名誉教授)。これを読んだときに「なるほどなああ」と妙に納得すると同時に、クリスマスプレゼント≒キリスト教のお祭りの一環ではなく、いわゆる「恩送り」なんだなと感じた。さらに言うならばクリスマスプレゼントに限らず「知識」「智恵」のつまった古典こそまさに先代から伝わってきた贈り物だと言えるだろう。内田氏はこうも書いている「プレゼントについて子どもたちは事前に『こんなものが欲しい』という申告をなすことを許されるのだが、必ずしもそれがそのまま与えられるわけではなく、微妙に『欲しいもの』と『贈り物』がずれる。でも、それは『欲しいと言ったものがそのまま来た』場合よりも、なんとなく『クリスマスっぽい』と言う印象を子どもたちに残します。」(前著 P223より引用)。まさにその通りだと思う・・・。よって、今週は生徒たちは先人の教え、知恵という贈り物が詰まった「ことわざ」「短歌」「慣用句」などの本をクリスマスプレゼントとして配っている。喜んでくれると嬉しいのだけど・・・そしてそれらから身につけた智恵などを次世代に送ってほしいと思う。
2017/12/20 19:28
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フィットする?しない?
先日、ブロ友さんの記事の中で興味深い表現を見つけた。息子さんが国語の文章に対して「フィットしなかった」と発言したという内容。ブロ友さんの息子さんは国語が得意でいつもは高得点なのだが、たまたま一回だけ点数を下げてしまったそうで・・・その時のセリフだとか。これを読んだ瞬間に「分かる~!」と感じた。本、活字、文章を読むことが好きなタイプだと自分の中に様々な蓄積がある。だからこそ、その蓄積に応じて「自分にフィットする(合う)フィットしない(合わない)」が分かる、感じると言える。とはいえフィットしないから出来ない・・・のはもったいないので究極はどんな文章に対してでも「冷静に」「論理的に」を意識するほかはない。さて、それは国語の文章問題のみならず入試問題やテスト形式に対しても言える。どんな形式の問題でもオールマイティーに出来ます!というタイプも世の中にはいるけれど、割合的には圧倒的に少ない。だからこそ入試に関しては過去問を研究して出題傾向や時間配分の練習をする必要があるのだ。つまり冷静に傾向を分析することによって今後の対応策を見いだせる。大学入試において、いわゆる滑り止めの学校は不合格で、挑戦した大学を合格するというパターンを時々見聞きするけれど、それはある意味納得がいく。つまり自分が行きたい学校の過去問の研究や対策はしっかりとするけれど、そうではない大学(滑り止め)に対しては何ら対策をせずに受験をするから当日に「え?なにこれ?」☞「解けない」☞「不合格」ということになりうる。まあ、希望校に受かれば結果オーライだけど。さて、そういう訳で自分が目指す学校の入試の形式を知って対策をとることが大切、場合によっては「自分に合った問題形式の学校を選ぶ」というのもありかなあとも思う。さて、明日の午前中は高等看護学校の受験を控えている大人の方の指導予定。幸いなことに過去問題を3年分のコピーを手に入れて下さってたおかげで傾向がつかめた!私立や専門的分野の学校は毎年大幅に入試傾向が変わるということは少なく、(某)看護学校の入試問題は独特で「敬語問題が必ず出る」「小作文を書く」ことは例年変わらない。というわけで明日は細かい分析内容、間違いやすい敬語について、作文の書き方をお伝えしようと思っている。後は入試問題が「フィット」しますようにと祈るばかりだ。
2017/12/19 22:10
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お金の使い方
今日は町主催の読書感想文コンクールの最終審査の会議があった。滞りなく無事に審査を終えてホッとしている。以前にも書いたけれど、有難いことに「審査員≒有償ボランティア」という位置づけのため3000円の図書カードをいただける!審査終了後に図書カードをいただいたものの、財布に入る暇もなく10分後には本に化けていた(苦笑)。自分がいただいたお礼を使ったのであって、人様のお金を使ったわけではないので別に後ろめたいわけはないのだけど、一瞬「これ小判たった一晩いてくれろ」という川柳が頭をよぎった。※川柳とは「江戸時代中期以後,江戸を中心に流行した 17音詩。俳句と異なり季語、切字 (きれじ) の約束がなく人事万般を題材にし主として口語を用い簡潔、滑稽、機知、風刺、奇警を特徴とする。作者は無名の一般庶民。」基本的に「お金は使うためにある!」などとうそぶいている自分にとって、本、しかも仕事に使うための本を買うことは「活きた(いきた)お金を使う」ことだと思っている。にもかかわらず一瞬、川柳が頭をよぎったのには訳がある。実は先日、古文のテキスト内で「日本永代蔵」(井原西鶴作。江戸時代の浮世草子で、金持ちはいかにして金持ちになったか、町民の生活の心得を飾らずに描いた内容になっている。)を読んだからにほかならない。その内容とは「藤市(人の名前)と言う長者が、長者になるための秘訣を聞きに来た3人に世渡りの上で大切なことを語って聞かせた。例えば正月明けの七草をは雑炊≒増水(お米を水でふやかして増量する)と言った具合で、最後の部分では『もはや夜食の出づべき所なり。出さぬが長者になる心なり。』と青年たちの期待も見抜いた上で長者の心得を伝える。」ほかにもいくつか具体例が挙げられており、すべてにおいて納得したわけではないものの、自分って少々金遣いが荒いか?と反省したばかりだったのだ。とはいえ、何事も極端が良くないのであって「物事の教え」の本質を意識(「日本永代蔵」に関し言うならば「物やお金を大切にするという心得」」であって、必要な時にもお金を出さないというケチになれと言うわけではない。確かに夜食の時間であったかもしれないが、そもそもが3人の客の目的は食事ではなく知恵を授かることなので期待を分かったうえで敢えて食事を出さなかったと言える。)しつつ生活しようと考えさせられた。
2017/12/18 21:49
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