めむろ国語専門塾
- ブログ
小さな国語塾のつぶやき
「牧家(ぼっか)bocca」
「掛詞」とは、主に和歌にで用いられる修辞法のひとつ。発音が同じまたは似た言葉に、2つ以上の意味を持たせるように使う。掛詞が使われている有名な和歌としては「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」【小野小町(9番) 『古今集』春・113】がある。意味は「桜の花の色は、むなしく衰え色あせてしまった、春の長雨が降っている間に。ちょうど私の美貌が衰えたように、恋や世間のもろもろのことに思い悩んでいるうちに。」で【世にふる】の「世」は「世代」という意味と「男女の仲」という2重の意味が掛けてある掛詞。さらに「ふる」も「降る(雨が降る)」と「経る(経過する)」が、「ずっと降り続く雨」と「年をとっていく私」の2重の意味が含まれている。また【ながめせしまに】 「眺め」は「物思い」という意味と「長雨」の掛詞で、「物思いにふけっている間に」と「長雨がしている間に」という2重の意味となり、そういうことを知ってこの歌を鑑賞するとますます味わい深くなる。さて、北海道といえば「食べ物王国」!農業、酪農、漁業のどれをとっても盛んで本当に何を食べても美味しく、素敵なお店がたくさん!先日、北海道自慢をしようと思い友人に「牧家(ぼっか)」という会社のスイーツを送ったところ、お礼のメールとともに興味深い情報が。牧家のパッケージには「bocca」という表記もあるのだけれど、むろん陰陽師はそんな表記はスルー。何気に「ああ、ローマ字表記?」程度で終わっていた・・・、友人はイタリア語を習っているため「bocca(ボッカ)」がイタリア語だとすぐに分かったそう。実は「bocca(ボッカ)」はイタリア語で「口」という意味をあらわすそうだ。つまり「牧家」を「bocca(ボッカ)」と表記することによって「牧の家」(酪農の家が作ったおいしいスイーツ)的な意味と「口」(おいしく食べてほしい)という意味が込められていたというわけ。それを知って思わず「へ~~~っ!面白い!よく考えられたネーミング~~~」とただただ感動した。嬉しくなって試しに「bocca(ボッカ)」について辞書で調べてみると結構面白い表現がいくつか紹介されていた。例えば「In bocca al lupo!」(lupoはオオカミ)これは「幸運を祈るよ!健闘を祈るよ!がんばって!」っていう意味だとか。受験生をはじめとして、何かに挑戦する人、むろん自分に対して「 In bocca al lupo!!!!」
2018/01/16 20:26
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「絶体絶命」「必死」
公立高校を目指している生徒たちに過去問演習をさせたところ・・・某生徒は四字熟語(2問)全滅!思わず手持ちのテキストを開かせて「ほらーっ、ここに載っているでしょう?!」とガツンと言った。なんだか嫌な予感がしたので中3生全員に「五里霧中」と「絶体絶命」を書くように指示したところ、「五里霧中」は全員正解したのだけれど「絶体絶命」に関しては半数が「絶体」を「絶対」と書いてしまった・・・。あーあ。確かに「絶対絶命」☞「絶対に(確実に)人間は絶命(命を落とす)」というのは真理だけど「絶体絶命」とは意味が違う!と伝えた。「絶体絶命」とは「逃れようがなく進退きわまった状態」をさし「絶体」も「絶命」も星占いの凶星の名前で運が極まり破滅する星回りと言うそうだ。さて誤字だけれど「絶対絶命」☞「人間は確実に絶命する(命を落とす、死ぬ)」という言葉から「必死」という文字を思い出した。以前に誰かが「必死」という言葉は「人間は必ず死ぬ」☞「だからこそ死を意識すると『今』を大切に生きるようになる」的なことを言っていたから。本で読んだのかネットで見たのかは忘れてしまったけれど、確かに「人は必ず死ぬ」ということを意識すればボケーっとしているのはもったいない。もしかすると明日には不慮の事故で亡くなるかもしれない、そう考えると「今」を大切に生きる=必死になるだろう。とはいえもしも余命数か月と言われたとしても何か特別なことをするわけでもなく(あえてするとすればお世話になった方々に挨拶状を書いたり、実際に会いに行くぐらい?)淡々と「今」を必死で生きるだろうなあと思う。さて、先日HPの管理をお願いしている方に数か月振りに連絡をした際にその方の今年の新しいヴィジョンなるものを知ることになった。かくいう自分自身も今年は新しいヴィジョンを持っておりそのことを相談すべくして連絡をした次第。もしかするとヴィジョンがあってもそれをやり遂げる前に絶命するかもしれない、それでも「やっておけばよかった」という後悔をしたくないからこそ「今」やりたいことを一つ一つコツコツとやっていくだけ、ただそれだけ。やりたいこと、やるべきことは人それぞれ違うけれどたとえ「絶体絶命」になろうとも「絶命」になるまでは「必死」で「今」を生きることが大切だと思う。
2018/01/15 20:23
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「制約」があるからこそ・・・
俳句と短歌の違いは?と聞かれると一般的には「字数の違い(長さの違い)」「季語を入れるかどうか」という意見が大半だろうし、むろんそれらは正しい。そういった制約に加えて明治期の俳人・歌人である正岡子規は「俳句はあるがままのものをあるがままにうつせ」という写生論で、短歌に関しては主観や時系列に描くことが可能だと言っている。2018.1.13日付の十勝毎日新聞に興味深い記事があったので紹介する。【一瞬の情景を空間的な広がりとして捉える俳句では、このような時間の流れは表現しにくい。が、短歌でなら、それが可能だ。短歌は「空間」よりも、むしろ「時間」を表現するのに適した詩型なのだ・・・。子規は自ら歌を作ることによって、そのような短歌の特質を体得していくのである。(引用終わり)】確かに、季語を入れてなおかつ17音の中に感動を詠み込むという制約の中には時間の流れをも入れるのは難しい。短歌ならば前半の5・7・5と後半の7・7で時間の経過を詠み込むことはよくあるパターンだろう。どちらが優れている、劣っているということは全くなく、結局は本人の好みで「俳句」として表現するか「短歌」として表現するかでよいと思う。ただしこの俳句の制約こそが素晴らしい作品を生み出す大きな要因になっているような気がする。また、人様からのアドヴァイスで印象に残っている言葉は意外とシンプルで短いような気がする。☜あくまで個人的に。さて、今日はセンター試験二日目、これが終わると2次試験、私立の一般入試・・・中学生にとっても私立の試験が来月には始まり、一言でいうと「時間がない」という状況だろう。でも言いたい、もしも膨大な時間的余裕があったら確実に勉強するか?と。ある意味「時間」という制約があるからこそ、この限られた時間内で何をどのようにすれば最高の結果を生み出すことができるか?と各自が工夫をすることになる。つまり制約のない状況がベストではなく、制約の中で何ができるか?と試行錯誤した者がそれなりの成果を出せるのではないだろうか?いつも「時間がない~」とバタバタ状態で常に自転車操業の自分に対する言い訳でもある(汗)。
2018/01/14 16:08
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「知過必改、得能莫忘」
「千字文(せんじもん)」の中に「知過必改、得能莫忘(ちか ひっかい、とくのう ばくぼう)」という言葉がある。「過ちを知りて必ず改むる、能を得て忘るる莫れ(あやまちをしりて、かならずあらたむる、のうをえてわするるなかれ)」。 現代語で言えば、「自分の失敗を知ったら、必ず改める。能力を手に入れたら、忘れてはいけない」という意味。【※「千字文」とは中国六朝時代の詩。一巻。梁りようの周興嗣しゆうこうし作。四言古詩二五〇句(千字)から成る。古く中国で、初学の教科書・習字の手本とされた。日本への伝来時期は不明だが、平安後期以降、漢字の習得教育に用いられた。(大辞林第三版より)】。正直言ってこれを実行できる人のことを心底、尊敬する。自分は・・・失敗を知ることまではかろうじて出来るのだが改めるのが至難の業。改めようと意識している(意識しているつもり)なのだけれど何度も何度も同じ失敗をしてしまう。言い換えると改まっていないから失敗を繰り返す。これは人生におけるあらゆる経験はもちろんのこと、勉強、習い事のように何かを身につけようという場合にも当てはまる、だからこそ自分に合った指導者に師事し常に誤りを指摘、訂正してもらい少しでも正しい方向へ向くように反復することが大切だろう。とはいえ、いくら口酸っぱく指導しても全く通じないタイプは少なからず存在し、お恥ずかしいながらそのタイプに自分も属するような気がする(汗)。国語を教えるという立場ながら別の分野に関しては人様から定期的に教わる立場にあるので、「何度、指導しても通じない…(´;ω;`)ウゥゥ」という気持ちと「その瞬間は分かってもなかなか自分のものにならない」というもどかしさの両方がよく分かる。とはいえ、常に「過ちを知りて必ず改むる、能を得て忘るる莫れ」という言葉そのものは決して忘れずに常に心の中に持っておきたい。この気持ちさえ失わなければ相手を変えることはできなくても少なくとも自分は「変わる」≒「成長する」ことができると思うから。
2018/01/13 05:37
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
性格抜群の某生徒
とっても頑張り屋さんの中学生男子、諸所の事情から昨日に引き続き今日もお教室に来ることになった(振替授業)。少人数制のため、正直言ってクラスによって雰囲気が全く違うということを長年通塾している彼はよく分かっている。それゆえ「先生、明日はどんな人がいますか?」と少々不安げに聞いてきたので「とってもまじめで優しいお兄さんたちだから安心して。」と伝えた。すると彼は自分と同級生あるいは年下ではないと分かった瞬間に何人かのお兄さん達の顔が目に浮かんだのだろう。「僕、もしかしたら知ってる人かもしれませんね。今までにも一緒に授業を受けたことがあるような・・・。よかった。ところで先生!ここの教室に来ている中学生の人ってみんな本当にいい人ばかりですよね。」とポツリ。「そうだよ!本当に不思議なぐらいにいい子ばかりだよ」と言いながら内心では(そういうことをサラッと言える君こそが最高に良い子だよ~~~。)とつぶやいた。本人の前では「お上手」を言いながら、陰では人の悪口、不平不満ばかり言うタイプの人間が世の中には少なからず存在する。でも彼は全くの真逆で、本人の前では憎まれ口もたたくし(どれほど彼に茶化されたかわからない…苦笑)、学校の先生のことを「〇〇先生って怖いんですよ~。」などと言うけれど、あくまでも人の行動に対しての疑問を発するだけで決して人格否定をしたり、陰湿なことは言わないタイプ。彼のような性格の良さは「自分に存在する自信」や「自己肯定感」からくるのだろうか?もしもそうだとするならば、彼のような性格の良いタイプはどこでも、誰からでも可愛がられますます「自己肯定感」などがアップする→「性格の良さ」が保たれる・・・というよい循環になるなと。その逆は怖いけれど・・・。ありがたいことに、彼も言っているようにお教室に来てくれる生徒達、みなとっても良い子たち!今日も楽しく頑張ろうっと。
2018/01/12 16:22
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「鬼」≒「神」
古くは「神(かみ)」と「鬼(オニ)」は同義だったと昨日付けの朝日新聞に紹介されたことをブログに書いた。なるほど、だから荒々しく恐ろしい神のことを特に「鬼神(キシン)」といい強い侍や見事な戦いぶりに対しても使うんだなあと納得。また「桃太郎」を代表として、昔ばなしでは「鬼」≒「悪い」というイメージだが鎌倉時代の教訓説話である「十訓抄」では「鬼」は不思議な存在として描かれている。決して「悪い」「怖い」存在ではない。「十訓抄」十の二十( 博雅三位 朱雀門の鬼の笛)などは本当に興味深い。あらすじは「(音曲の天才として名高い)源博雅の三位が、月の明るかった夜に、直衣(男性貴族の普段着)で、朱雀門の前でそぞろ歩きして、一晩中笛を吹いていると同じように直衣を着た男が笛を吹いていた。その笛の音が、この世のものとは思えないぐらいに素晴らしく、博雅も笛の主も物言わずに互いに吹きあっていた。それから、月が美しい夜ごとに(朱雀門で)行き会って笛を吹きあった。その男の笛の音があまりにもすばらしかったので博雅は自分の笛と取り替えて吹いてみたところ、この世にほかにないほどの優れた笛だった。その後、たびたび月がきれいな頃に(朱雀門で)行き会って(笛を)吹いたが、(その男が)『もとの(私の)笛を返してください。』とも言わなかったので、長く取り替えたままですんでしまった」。ちなみにこの話は高校入試にもよく出題されるの毎年受験生には問題集からピックアップし、時代背景などなど説明してから演習している。この話の興味深いところは「鬼」≒「神」だからこそ「鬼」は人知を超える音色を出す笛を持っていること、風流を解せるということだと思う。ちなみに小説「陰陽師シリーズ」(夢枕獏氏)では源博雅と陰陽師である安倍晴明は親友という設定で描かれているけれど実は二人は同時代に活躍はしたものの、親友という間柄ではなかったらしい。それでも源博雅が楽器の名手であったこと、鬼≒神であることを下地にして清明が目に見えない「鬼」と戦うときに博雅を連れ笛を吹くことによって鎮めるという場面を夢枕氏は創作している。恐れ多くも「陰陽師」というハンドルネームを使っている自分としては「鬼」≒「神」は本当に興味深い。
2018/01/11 23:21
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
新「強意語」
【2月には節分を迎えますが、「鬼」をつけるのも最近の新しい強意表現の一つです。「とても。やばいくらい(現代用語の基礎知識)を意味し、「鬼強い」「鬼速い」のように形容詞の前につく例が多いようです。(中略)風神や雷神などの荒ぶる神が鬼の姿で描かれるように、古くは「カミ」と「オニ」は同義だったといいます。(2018.1.10 朝日新聞15面「ことばの広場」から抜粋)】この記事を今朝読んだ時に、なんとなく不思議な気がすると同時に面白い現象だなあと思った。何が不思議かというと知らずのうちに「鬼」のもともとの意味(神という意味がある)を使って新しい表現をする若い子たちのセンスに対して。自分は言葉に限らず、あらゆることについて語源や元々の由来や意味を知ったうえでアレンジするタイプだから純粋にセンスのみによって新しい言葉やファッションなどを作り出す若さというパワーには感服する。さて、似たようなことが先日あったなあと思いだした。先週、中学生男子がホワイトボードに必死でなにやら書いている。よく見ると「卍」!なぜ突然に「寺」を表す地図記号を書くのだろう?と思いながら黙ってみていたところ…書き終わった彼が「やったー!ようやく上手に書けるようになった」とご満悦。てっきり学校で地図記号の小テストでもあるのだろうか?と相変わらずボケている陰陽師。それから2,3日後に偶然にネットニュースで「卍」の新しい意味を知ることになる・・・。寺を示す地図記号で古くヒンズー教や仏教でめでたいしるしとされてきた「卍」が今、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上で若い世代、特に女子高校生により昨年後半から頻繁に使われているということを。昨年末には三省堂辞書の編集委員らが選ぶ「今年の新語」の候補にもなったとか。どうやら「卍」の発音「まんじ」→「マンジ」→「マジ」(すごい)という意味で使われているらしい。つまり、先の「鬼」と同じく強意表現の一つとして頻繁に活躍しているそうだ。うーん、さすがにここまでくると完全についていけない・・・。古文の「強意表現」は「いと」!それが流行語になると古文に親しむ若者たちが増えるのでは?でもそうは問屋おろさないか・・・と妄想中。
2018/01/10 15:40
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「年賀状」「寒中見舞い」考
今日からそろそろ「寒中見舞い」の準備をしようかなと思っている。寒中見舞いは、暑中見舞いと同じような季節の挨拶状だったけれど最近では松の内(1月7日)までに出せなかった年賀状の返礼に使われる、喪中の人や年賀状を出しそびれたときにも活躍してくれる挨拶状である。今年は年賀状を月1日に届くようには出せなかったものの(生徒達には早めに出している)、一応1月3日以内につくように・・・と頑張った。でも、相手の住所が変わっており、送れなかった方達や大量生産の年賀状ではなく丁寧に近況報告をしたいという方達に寒中見舞いを送らせてもらう予定。さて、去年のブログに書いた記憶があるけれど年賀状は平安時代から続く日本の伝統的な慣習。年賀状を書くのは大変だけれど年に一度の近況報告をすることによってお付き合いが何十年も続いているという方々も多く個人的には素晴らしい慣習だと思っている。さらには寒中見舞いも、喪中で年賀状が出せなかったり年賀状を書く時期を逃したときに使える便利な?挨拶状だと思う。とはいえ最近は頂いた年賀状に「来年からは年賀状を控えさせていただきます。」という一筆を入れている方々がちらほら。高齢で体力的につらくなったり、年末の忙しい時期に年賀状を書く暇はない、形式だけでのつながりはスッパリと切る・・・などなどの理由があるだろう。正直言ってこういった「年賀状を書かない」という選択も大いに賛成である。自分自身は先にも書いたように今は「年賀状をもらうと嬉しい」→「年賀状が欲しい」→「自分も書く」という図式だけれど、いつ年賀状や寒中見舞いを「やめる」か分からない。何事も「継続は力なり」とばかりに「継続する」ことに重きを置かれることが多いけれど少なくとも「年賀状」「寒中見舞い」については「やめる勇気」もありだろう。なぜなら「年賀状」「寒中見舞い」を辞めることによって自分や周囲に多大なる損害を与える、被るということがないから。たとえ1000年続いている慣習だからと言って無理して続けることはない。要するに個々人のライフスタイルに合わせて「書く」「書かない」を選んだらいいのかなあと思っている。自分自身はもうしばらくは続けれど(楽しみ、喜びの方が大きいから)。
2018/01/09 16:52
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「胆力」
「一生に一度は千載一遇のチャンスがある。これをつかまえるには、鋭い見識と周到な注意力と、大胆な胆力(たんりょく)が必要なのだ。」(岩崎弥太郎:三菱商会という海運会社を経営し、のちの三菱財閥の基礎を築いた。)この言葉を昨日付け(2018.1.7)の中高生朝日新聞の一面で見た。さらに記事には次のような解説がある。以下引用「河合さん(※歴史作家の河合敦氏のこと☜陰陽師注釈)は『チャンスをつかむのが偉人。つかまないのは凡人』とこの言葉を解説します。『胆力とは勇気という意味。目の前に大きなチャンスが来ると怖くもなりますが、迷うことなく勇気を出してつかんでほしい』」(引用終わり)。この記事を読んで、個人的には「胆力」に関しては「覚悟」だととらえた。とはいえ一般的に説明する、ましてや中高生に分かりやすく説明するには「勇気」という表現がベストだろう。ただし・・・勇気もって目の前のチャンスをつかむだけではなく、つかんだ後にそれらを引き受ける「覚悟」があるか?が勝敗を分けると個人的には思っている。折角のチャンスを勇気をもってつかんだとしても「やっぱり怖い・・・。やーめた」とすぐに手放すと結局はチャンスを棒に振ることになるから。と同時に「大胆不敵」という四字熟語を思い出した。「大胆不敵」の意味は「度胸がすわっていて、まったく恐れないこと。「大胆」は度胸があって物事に気後れしないさま。「不敵」は恐れを知らず敵を敵とも思わないこと。」だが、「大胆不敵」の状態、「まったく怖れがない」って果たしてどのぐらいあるのか?もしもあるとするならば相当の訓練をして場数を踏んだ状態かあるいは単なる自意識過剰か?少なくとも自分自身は完全な「大胆不敵」の状態にはなったことがない。でも「大胆不敵」な状態になることが目的ではなく「大胆不敵」のフリをすることこそが大切かなあと自分自身には言い聞かせている。本当に胆力があると怖くても勇敢でいられる、恐怖の向こうに自分が求めているものがあると分かっている強気でいることができるから。「怖さ」「恐怖」をも引き受ける覚悟、そして「怖さ」「恐怖」を感じて認めながらも勇敢に勇気もって立ち向かうことこそが「胆力」に他ならないと思う。今年は「胆力」を鍛えることも目標のうちの一つ。
2018/01/08 18:09
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です
「さくら」≒「同調効果」
今日の午前中は某イベント会場へ行く予定。なぜなら東京在住の写真家が写真を撮るためにお越しになるそうなのだが実は今日は某イベント会場は本来はお休み(年末年始のため不定休になっている)!さすがにイベント会場なのに誰も人がいない状況での撮影はいかがなものか?ということでスタッフから「ぜひ顔を出してほしい」という要請があったから。そう要するに「サクラ」としてふらりと行ってみようかと。自分で自分のことを「サクラ」と言いつつ、「あれ?なんで客の振りをする人をサクラというのか?」と不思議に思い、さっそく調べてみた。【さくらとは実際の客ではないが客の振りをして、商売や番組などをより良いものに見せかけるべく雇われた人々のこと (weblio辞書より)。さくらを「偽客」と書くのは当て字で、露天商などの隠語から、明治時代以降に一般へ広まった。さくらの語源は諸説あるが、江戸時代の芝居小屋で役者に声をかける見物人役は、パッと派手に景気よくやってパッと消えることから、桜の性質になぞらえ「さくら」と呼ぶようになり、そこから露天商の隠語となって、一般にも広まったとする説が有力とされる。また、桜は無料で見ることができるため、芝居を無料で見物する人を「さくら」と呼ぶようになり、現在の意味になったとする説もある。(語源由来辞典より)】。今日は単なる「客の振り」だけれど、「客寄せ」のためのサクラは実際に効果があるのか?に関しては「ある」と証明されている。アメリカの心理学者ミリグラムは繁華街で「サクラ」についての心理学実験を行ったところ、ビルを見上げる人(サクラ)の人数と、 立ち止まる人の割合との関連がはっきり出た。 男でも女でも見上げる人が2~3人になると、 見上げる人、立ち止まって見上げる通行人が急速に増加する。 5人以上にもなると実に8割の人がサクラにつられて同様の行動をとったのだ。 他の人と同じしぐさや態度、行動をとる「同調性」を 多くの人が持っていること、それは人数が多い程 その効果が強まることがよく理解できる。 言い換えると・・・だからこそ「少しでも良い環境を」と進学に関してのこだわりが出てくる。運動を頑張りたいタイプは当然「運動が盛んな学校」、勉強を頑張りたいタイプは「進学校」といった具合に。自分に合った環境を見極めそこに向かって進むことが大切。
2018/01/07 04:08
-
-
コメントするには会員登録後、ログインが必要です