小さな国語塾のつぶやき
「正解なき問い」
本日付(2018.4.22)の朝日中高生新聞の1面トップの見出しが「正解なき問いと向き合う」だ。「鬼の子どもの立場で考えたら、本当に『めでたし、めでたし』だったのだろうかー。3月、昔話の桃太郎を題材とした授業に取り組んだのは、東京都港区立御成門(おなりもん)中学校の2年生(当時)です。(中略)桃太郎は村を荒らす鬼を退治するストーリーですが、生徒に配られたのは『ボクのおとうさんは桃太郎というやつに殺されました。』と書かれたキャッチコピーでした。(中略)授業のきっかけは、このキャッチコピーが掲載された新聞広告です。(後略)」(朝日中高生新聞より引用)。記事中に「誰かの正義は、他の人の悪かもしれない。現実の世界でも起きているのではと思った」と中学生の意見が載せられており、本当にその通りだと思う。昔からよく言われている「小さな親切、大きなお世話」も視点が違うから起こる悲喜劇?だろう。この「正解なき問いと向き合う」のは人間の永遠のテーマ・課題かもしれない。もちろん自分自身も常にこのような「正解なき問い」を突き付けられているような状態・・・。そんな時には次の2点を心がけている。①想像力を養う(相手の視点を想像する)。②良い意味で固執しない、諦める。①に関しては使い古された内容かもしれないけれど、いざとなったら意外とすっぽりと抜けてしまう姿勢だろう。お教室では演習として解いた文章に対して、各自好きなコメントを口々にしている。「この主人公おかしいよね~!なんで○○なんてするんだろう?変だよね。」と言った具合に、主人公とは別視点からの意見が多い。そういう意見を聞くたびに付和雷同ではない個々人の視点、意見を持っている彼らに対して「おおっ、なかなか鋭い視点!」と感じる。さて、②に関しても①に通ずるのだけれど、行き詰ったら「あきらめ」て別の視点を持つことによって解決策が見つかることが多いと言いたい。例えば、あるテーマで「意見文」を書こうとして張り切ったものの、どうしても筆が進まないことはよくある。その時にそのテーマに固執することなくさっさと見切りをつけた方が賢明なことが多い。そもそもが「正解」が一つとは決まっていない、下手すると「正解」そのものがないものに対してはある程度の時間と労力を費やしてうまくいかなければ、見切りをつける。ほどほどの完成度でもよし!と自分に許可することが必要だと最近つくづく思う。だからこそ「国語」は嫌だというタイプがいるけれど、人生なんて「正解なき問い」の方が多い。国語力を鍛えて生きる力を付けたいものだ。
2018/04/22 16:47
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