小さな国語塾のつぶやき
「あいまいさ」を判断する力
「先生!区別と差別の違いって分かりますか?」と突然にS君が切り出した。一瞬ひるみつつも「うーん、はっきりとした線引きは出来ないとは思うけれど敢えて言うならば、単に分けるだけなのが区別で『上から目線』『悪意』がこもっている方が差別かなあ?」と答えた。今年の夏休みの課題である「意見文」のテーマを早々に考え始めたS君。今年のテーマは「区別と差別の違い」と決め、昨日からメモ書きを始めた。早速、ネットで言葉の意味などS君と一緒に調べたところ「差別」の方は「他よりも不当に低く取り扱うこと」とあり「成程~」と、とりあえずお互いに納得した。が、が、が、「不当」という定義がこれまた厄介で、どの程度からが「不当」となるのか個々人で感覚が違う。実際にS君が学校の先生に「先生!ひどいです、それは差別です!」と訴えたところ「違う、これは差別ではなくて区別だ」と言い返されたそうだ。つまりは一方が「不当」☞「差別」と感じても他方が「区別」だと認識することが少なくない。互いに判断基準が違うため、互いに理解しあうことは難しい。さらにS君が「僕は辞書で『言い訳』と『理由』について調べたら完全に同じ定義として扱われていました。理由を言ったとしても下手すると相手から『言い訳するな』って言われるってことですよね。」と続けた。流石にうーんとうなってしまったものの、これらのちょっとしたニュアンスや感覚の相違は昨日のブログで紹介した「会話」についても当てはまるなあと漠然と考えた。当人は「教えてあげている」「いい話をしている」と思っていても聞く側からすると「自慢話」「興味のない面白くない話」となりうることもあれば、「素晴らしい」「知らなかったことを知ることが出来た」と喜ぶ人もいるわけであって・・・。さらには同じ内容であっても「誰が」話すか、どんなシチュエーションで話すかによって受け取り手の感じ方も違ってくる。結局はこの「あいまいさ」をどう判断するか?少しでも正しい判断力を身に付けることが大切で、それらの力を身に付けるためには、感覚、身体を通して様々な経験を積み、時には失敗を繰り返すことが一番の近道であり重要だ思う。
2018/04/14 04:10
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