小さな国語塾のつぶやき
我(が)を持つ
日本はダジャレ(掛詞…一つの言葉に二つ以上の意味を込めること)の国だなあとつくづく思う。例えば、神社への砂利石は 邪気を離(り)、離す!と言われていたり、神社の奥にある鏡は か:が:みの 真ん中のが:我(自我)を取って、神になる・・・と言ういわれがある程。真偽のほどはともかくとして「我」があるから人間なんだというのは納得。さて、では「我」は良くないのか?というと決してそう言うわけではない。強すぎると「我がまま」となるが、程よい「我」は個性となり、また「我」があるからこそ人間は頑張れるのだ。人間は、我(自分)が少しでも快適に、よりよくなるために、目の前の不便さ不具合を何とかすべくして工夫するもの。先日、某人から「高校1年生になる子供が全く勉強しなくて困っている。」と相談を受けたが、困っているのは親だけであって実は本人は全く困っていないのである。だから勉強しないのだ。昔とは違って、今の子は住むところや今日食べるものに困っているというわけではなく、テストで悪い点を取ったからと言って明日の食べ物がなくなるわけではない。せいぜい親や先生から口うるさく言われるだけなのだ。恵まれていることは素晴らしいが、恵まれすぎると工夫をしなくなる・・・。いい意味での危機感や困った状況を作る(具体的にはピリピリした環境の塾に入れるなど)、我(が)を持つことも時には大切か。
2016/03/25 00:26
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